大坂冬の陣の古戦場の今福、蒲生の激戦地の跡・今福・蒲生の戦い跡
2018年05月25日
慶長19(1614)年、大坂城攻撃のため、現在の天王寺、茶白山に本陣を置いた徳川家康の命により、今福・蒲生は秋田城主佐竹義宣、鴫野には米沢城主上杉景勝が、大軍の陣を置いた。
今福・蒲生と鴫野は大坂城の東北に位置しています。旧大和川〔宝永元年(1704)年に付け替えられ、現在は大阪市と堺市の境にあります。〕をはさんで佐竹軍は北側の今福・蒲生、上杉軍は南側の鴫野と、南北に布陣しました。豊臣秀頼は大野治長に命じて三重の柵を造り、この地域を守っていました。
11月26日未明、佐竹軍は今福・蒲生方面を攻め、上杉軍は鴫野の豊臣側の砦に向かいました。双方ともに豊臣方と激突し大坂冬の陣最大の激戦となったのです。初戦徳川方が優勢で、まさに砦を攻め落とそうとしていた時、大坂城内より木村重成・後藤又兵衛基次が旗下の兵を指揮して駆け付けました。両勇将は先頭切って反撃し、破られた砦を取り返して勇猛に戦った結果、佐竹軍は死傷者が続出しました。ついに佐竹義宣は鴫野の上杉軍に助けを求め、佐竹・上杉両軍が合流しまし、ようやく豊臣方の追撃を食い止めることができたのです。
この今福・鴫野合戦では、両軍とも死傷者、数知れずでした。
当時、今福・蒲生一帯は水田や沼地で、戦いは堤や街道沿いで行われたと考えられます。
当地は、東成郡誌によると、旧鯰江川北岸、今福堤(野田・古堤街道)の上にあります。
平成27(2015)年3月、石碑と説明板が建てられました。
石碑の横には今福の丸木舟出土跡の説明板があります。
大正6(1917)年5月7日今福村(現在の今福西1丁目)「鯰江川」(現在は埋め立てられて道路)の三郷閘門(さんごうこうもん)の樋工事(ひこうじ)のとき、当地の川底から、楠木の大木を半分に割ってくり抜いた大きな丸木舟(くり舟)が掘り出されました。
この丸木舟は 複材式の構造で大きさは長さ13.46m、幅1.89m、深さ0.818mと大型なものであり、古墳時代から奈良時代のものと推定されます。
この出土した丸木舟は 昔このあたりが大阪湾の海水が流入する海(河内湾)から淀川・大和川の沖積作用により、次第に湖沼(河内湖)へと変わり池や沼が点在していた頃、古代人が水上交通に用いていたものと思われます。発掘された当初、舟は三郷橋(この地から南東約30mの地点にあったと思われます。)の近くに置かれ、各地から弁当持参で 見物に来る人もあったそうです。その後昭和になって大阪城内に展示されましたが昭和20(1945)年の空襲で残念ながら焼失しました。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS M6
H30.4.28
住所: 大阪府大阪市城東区今福西1丁目14