伊香保神社(渋川市・旧伊香保町)
伊香保神社掲額事件の舞台になった伊香保神社
2018年08月17日
伊香保神社の主祭神は大己貴命、少彦名命です。
第11代垂仁天皇の時代の開起と伝えられ、第54代仁明天皇の承和2(835)年9月19日名神大社の社号を授けられ、承和6(839)年従五位に列しました。第57代陽成天皇の元慶4(880)年には従四位を授けられ、第91代後宇多天皇の建治元(1275)年正一位に列しました。
第60代醍醐天皇の延喜5(905)年に編纂が始められた法律執行細則集の中の神名帳に、伊香保神社も記載され、朝廷公認の神社となりました。平安時代のこの延喜式神名帳には、全国2861の神社が登場、これらは、全て歴史のある神社で式内社と呼ばれました。なお延喜式神名帳は、延長5(927)年に完成しました。その後、鎌倉時代初期、各国ごとに一位の神社を定め、大和国ー大神神社、信濃国ー諏訪大社などのように「一宮制」ができましたが、これに準ずる二宮、三宮・・・を定める国もあり、上野国は十二宮を定め、伊香保神社は、一宮貫前神社、二宮赤城神社、についで、三宮の神社となりました。
明治維新後、太政官布告によって、あらたに近代社格制度が敷かれ、政府管轄の神社(官幣社)、地方官管轄の神社(国幣社)の次に、地方公共団体管轄の神社(府県社)などができ、伊香保神社は県社を賜ることとなりました。
なお、江戸時代末期、北辰一等刀流の開祖である千葉周作が、兵法の国上州で名を上げるため、当時最大の剣門であった地元の間庭念流と対峙してまで、神社への奉納額を掲げようとしたのがこの伊香保神社です。「伊香保神社掲額事件」といいます。
掲額を阻止するため、馬庭念流一門500余名のほか、同じくらいの数のやくざ者や、鉄砲を持った猟師まで集まり、気勢を上げました。
事態を重くみた当代樋口定輝は大事を制止するため伊香保へ向かいましたが、これを見た人々は、当主の出馬だと勘違いして、いよいよ騒ぎは大きくなりました。しかし、村役人木暮武太夫や代官所の取成しもあって千葉は上州から撤退し、事なきを得ました。司馬遼太郎の小説「北斗の人」ではこの辺りの顛末が描かれています。
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
H30.7.23
住所: 群馬県渋川市伊香保町伊香保
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