琳光寺 長寿院盛淳の墓(大垣市・旧上石津町)
島津義弘の身代わりになり戦死した長寿院盛淳の墓
2018年09月03日
長寿院盛淳は、護国山安養院(鹿児島市)の住持を務める傍ら、島津義久に仕えました。
後に島津義弘に力量を見込まれ家老に登用されると、善政を施し戦陣では数々の手柄を立てました。関ヶ原の戦いでは、本戦の前々日に薩摩(鹿児島県)から大垣城へ駆けつけ、義弘はその参陣を大いに喜んだといいます。
戦いの当日、西軍の敗北が決定的になると、義弘は敵中突破を敢行し、伊勢街道を南下して撤退します。猛追する東軍に対し、島津隊は「捨て奸」で対抗し副将を務めた義弘の甥、島津豊久らが烏頭坂(上石津町牧田)で奮戦するものの、義弘の本隊はここ牧田上野(上石津町牧田)で井伊直政に追いつかれてしまいます。盛厚は義弘の陣羽織を身に着け、身代わりとなって踏み止まり、従士と共に討死しました。
この頃、徳川家康が追撃中止を命じたため、関ヶ原の戦いは終結します。義弘は、昼夜を問わず時山(上石津町)から五僧(岐阜・滋賀県境の峠)越えで保月(滋賀県多賀町)を抜け、近江〔滋賀県)へ逃れたとも、駒野(海津市南濃町)を経て近江や伊勢(三重県)へ逃れたとも伝わります。1千5百余といわれる島津隊のうち、義弘に付き従って薩摩へ帰還できたのは、わずか80ばかりだったといいます。
琳光寺の境内に長寿院盛淳の墓があります。長寿院盛淳は、子孫が阿多姓を称したため、阿多盛淳、阿多長寿院とも勝せられます。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS M6
H30.8.10
住所: 岐阜県大垣市上石津町牧田2487
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