大巻薩摩工事役館跡(養老町)
宝暦治水における薩摩藩の本拠地・大巻薩摩工事役館跡
2018年09月13日
大牧役館は、宝暦治水における薩摩藩の本拠地でした。総奉行平田靱負らが詰めて工事を指揮した本小屋・元小屋ですが大牧にあることから「大牧役舘」とも呼ばれています。
むかし濃尾平野は、木曽、長良、揖斐の三大川が乱流していて大雨のたびに河道を変え、自然の暴威になすすべもない状態でした。しかし当時の領主たちには根本的な対策をたてる力もなく、再三の請願に幕府もようやく腰を上げ、宝暦三年(1753)年12月、薩摩藩に治水工事のお手伝いを命じました。
これが宝暦治水工事で、その規模が江戸時代濃尾における治水普請中最大であったばかりでなく、三川の分流をも企てた画期的なものでした。
薩摩藩では「住民を救い、日本国を興す」ためにと、この大業をひきうけ、宝暦4(1754)年閏二月九日、総奉行平田靱負以下の藩士が当地(当時安八郡大牧村)に到着、豪農、亀頭兵内宅を元小屋(本陣)に、根古地新田(旧池辺小学校敷地) 中島九郎右エ門宅を第二元小屋として工事に着手しました。
工事は濃、尾、勢三国にわたり、947人という多数の藩士が馴れない治水事業で苦労しました。そのうえ数次の出水で作業は思うように進まず、強い幕吏の督責から自刃する人が続出、疫病に倒れたかたと合わせて、実に八十八名の犠牲者を出しました。
こうして、あらゆる困難をも克服、一年後の同5年3月、各工区とも見事に竣工、5月22日の幕府の検分には、一同その出来ばえに驚嘆したと伝えられています。
平田総奉行は藩主島津重年公に工事の完成を報告した後、多数の犠牲者を出し四十万両の大金を費消した責任を一身に負い5月25日早朝、この元小屋において割腹しました。
東海三県の今日の発展は、ひとえに義士のおかげであると申しても過言ではなく、その精忠、義烈は永く国民の鑑として仰ぐべきであります。
大正14(1925)年12月29日には薩摩義士顕彰会が組織されて、役舘跡に保存・記念碑を建立することが企画され、昭和
3(1928)年5月6日に除幕式が挙行されました。大牧村は、明治8(1875)年町村合併により大巻村となったため、現在は、「大巻薩摩工事役館跡」と、呼び方が統一されています。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS M6
H30.8.10
住所: 岐阜県養老郡養老町大巻39
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