観音崎砲台・北門第三砲台(横須賀市)
県立観音崎公園に残る観音崎砲台・北門第三砲台
2019年01月15日

観音埼灯台をとり囲むように、観音崎の台地に砲台の跡が残っています。
文化7(1810)年、徳川幕府は樺太出兵後の会津藩に相州側の江戸湾警備を命じ、会津藩は、観音崎、久里浜、城ヶ島に砲台と陣屋を築きました。
観音崎台場は、現在の観音埼灯台のある場所に文化9(1812)年に完成しました。
文政4(1821)年以後、浦賀奉行所によって管理され、その後、慶応4(1861)年から江川太郎左衛門が引継ぎ、明治以後は、海軍省から陸軍省へと引継がれ、昭和20(1945)年8月15日の終戦まで管理されました。観音崎一帯は明治14(1881)年に要塞となり、一般の人の立入りは禁止になりました。
観音崎砲台は、帝都東京と横須賀軍港を守るために、明治政府によって東京湾口部に日本で最初に建設された西洋式の砲台群です。日本の最重要防御拠点として、旧陸軍が明治10年代~20年代にかけて9つの砲台を建設しました。日清戦争、日露戦争のときには戦闘配備につきましたが、幸い実戦で発砲したことはありませんでした。その後、兵器の進歩や国際情勢の変化などによってお役御免となり、多くは大正時代に廃止となりました。
第一、第二、第三、第四、南門、大浦、三軒家各砲台などや、火薬庫の跡など、今でも石組やレンガ造りの砲台の跡が残っています。
北門第三砲台は、観音崎公園の海の見晴らし台にあります。
すり鉢型の砲座が特徴的な榴弾砲の砲台です。榴弾砲というのは、砲弾を放物線を描くように高く打ち上げて、敵艦の甲板を破壊する大砲です。二十八糎榴弾砲は、明治17(1884)年に大阪砲兵工廠がイタリア式28cm榴弾砲を参考に試製した大砲で、対艦船用の大砲として明治25(1892)年から量産されました。日露戦争の際に、旅順要塞総攻撃が失敗したとき、寺内正毅陸軍大臣はかねてより要塞攻撃に同砲を使用すべきことを主張していた有坂成章技術審査部長を招き意見を聞き、この意見を採用することを決断し、山縣有朋参謀総長と協議して、先に移設予定の同砲のうち6門を旅順に送ることを決定しました。東京湾要塞から旅順に移送され、二〇三高地攻略で大活躍しました。司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」には、「大本営では、東京湾の観音崎砲台のベトンを割り、砲を解体して旅順へ送った。」と記されています。
北門第三砲台は左右対称に砲座が配置されていましたが、左の砲座は消滅しています。 1砲座に2門の榴弾砲が据えられていました。
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
H30.12.28
住所: 神奈川県横須賀市鴨居4丁目1153
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