安芸国分寺(東広島市)
現在は真言宗御室派の寺院で、安芸国分寺歴史公園として周辺も整備されている安芸国分寺
2019年09月04日

国分寺は、奈良時代の中頃、聖武天皇の発願によって国ごとに建立された官立の寺院です。僧寺と尼寺があり、僧寺の正式名称は「金光明四天王護国之
寺」と言います。仏教の力で災いを取り除いて国内を安定させ、人々の暮らしを守るという目的のために荘厳な寺院が建てられました。
安芸国分寺は、天平勝宝2(750)年頃には本尊仏を安置する金堂や僧侶が修行を行う講堂が建ち、様々な法会(法要)が行われていたことが発掘調査から明らかになりました。また、少し遅れて塔や僧房が造営され、広大な境内の東側では、国分寺の維持管理を行った施設(大衆院)や安芸国内の僧侶の育成や指導、法会の執行を行った国師のための施設(国師院)も建てられました。このうち塔は、聖武天皇が写経した「金光明最勝王経」を納めた建物です。
昭和7(1932)年に、聖武天皇の玉歯を埋めたと伝えられてきた塚の発掘調査を実施したところ、礎石などが見つかったことから、これが塔跡であることが明らかとなりました。礎石は、塔の心柱を立てる心礎を中心に、その周りには屋根を支える四天柱の礎石が4個並んでいます。また、最も外側には、壁を支える柱の礎石が12個並んでいます。礎石の一部は、調査前に移動されていたため、推定位置に復元しています。また、礎石の上面が熱で赤く変色していたことから、この塔は火災によって倒壊したものと考えられています。
平安時代の中頃には塔が焼失し、僧房も建て替えによって位置が変わりますが、金堂や講堂は、その後も屋根瓦の葺き替えが行われているため、引き続いて建っていたと考えられています。
中世になると、この地を治めた大内氏や毛利氏によって庇護され、伽藍も整備されたようで、仁王門(市重要文化財)は16世紀中期のものです。また、江戸時代には広島藩主浅野家の祈祷寺院として隆盛しました。江戸時代後期に建てられた護摩堂(市重要文化財)は重厚な建物で、正面向背には浅野家の家紋(違鷹羽紋)が掲げられています。宝暦9(1759)年4月の火災で多くの建物が焼失しますが、その後18世紀後半から19世紀にかけて再建が進められ、宗教法人國分寺として現在まで法灯が守り継がれています。
現在の国分寺は、真言宗御室派の寺院です。
なお、僧寺とともに建立されたとされる安芸国分尼寺の位置はこれまで明らかになっていません。
この安芸国分寺歴史公園は、「悠久のときの流れに想いを馳せ、先人たちの技や文化を追体験できる寺院空間」として、奈良時代に建っていた建物を中心に整備しました。
昭和11(1936)年、国の史跡に、昭和52(1977)年と平成14(2002)年に追加指定が行われました。
(現地説明板などより)
Photo EOS 5D MarkⅣ
R1.8.16
住所: 広島県東広島市西条町吉行2064
関連リンク
地図
関連情報