渡辺勘兵衛邸跡(大洲市)
現在の臥龍山荘近くにあった渡辺勘兵衛邸跡
2019年10月06日
渡辺勘兵衛は、藤堂高虎と同じ近江国生まれで、秀吉に従い度々の戦に戦功がありましたが、関ヶ原の戦いで敗れ、浪人となりました。 慶長6(1601)年、勘兵衛は、武将としての実力により高虎に2万石の大禄をもって召し抱えられ、 高虎の城代として大洲に入りました。元和元(1615)年、大坂夏の陣では高虎を助けて従軍し戦功をあげましたが、 高虎の命令を守らず怒りに触れ、藤堂家を去りました。
渡辺勘兵衛邸の正確な位置は明らかではありませんが、 大洲藩加藤家二代藩主・泰興が「勘兵衛邸跡」と呼ばれる場所に下屋敷を建て居住していたことが、 藩主や家臣の逸話をまとめた『温故集』に記されており、この一帯であったことが分かっています。 また、現在も地名に「勘兵衛邸」の小字が残り、その名残を今に伝えます。
すぐそばの臥龍山荘は、もともと勘兵衛邸、 あるいは加藤家下屋敷の庭園跡であったと考えられています。この地をこよなく愛した加藤家三代藩主・泰恒は、吉野の桜、龍田の楓を移植し、庭園に一層の風情を加え、 歴代藩主もここに遊賞したと言われています。木蝋貿易で財をなした大洲出身の河内寅次郎は、肱川随一の景勝地であり、歴史あるこの地を選び、 明治30年代、桂離宮などを参考に粋を集めた数奇屋を建築しました。
(現地説明板などより)
臥龍山荘隣接地に説明板があります。
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R1.9.21
住所: 愛媛県大洲市大洲398−4
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