円徳寺(岐阜市)
円徳寺は、浄土真宗本願寺派の寺院です。
寿永2年(1183年)に比叡山延暦寺の僧・寂円により天台宗の寺院、法泉寺として現在の岐阜市長旗に開創され、2世寂世が親鸞に帰依して浄土真宗の寺となり、寺号を常泉坊に改めました。
永禄7(1564)年に織田信長が岐阜城主になると土地を寄進され、現在地に移りました。信長から寄進されたといわれる鐘や「楽市楽座」の制札など貴重な文化財が寺宝として残されています。
慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの前哨戦で織田信長の嫡孫織田秀信は西軍に属して戦いました。しかし、岐阜城は落城し円徳寺(当時の浄泉坊)で剃髪して僧になりました。
織田塚から改葬したと伝わる史跡「伝織田塚改葬地」も境内にあります。天文13(1544)年9月、尾張国の織田信秀(信長の父)は、土岐頼純(頼充)を支援する越前国の朝倉孝景と連合軍を組んで斎藤道三のいる美濃国に侵攻してきました。9月19日、朝倉軍は赤坂(岐阜県大垣市)で斎藤軍を破り、稲葉山城へ退散させています。そして、3日後の9月12日、織田軍は稲葉山城を攻撃します。
「信長公記」によると、織田軍は城下の村々に押し寄せて焼き払い、町の入口まで詰め寄ります。
日が暮れ始めた頃、織田軍が半分程の軍勢を引き揚げたところ、突如斎藤軍が稲葉山城から出撃してきました。
不意を突かれた織田軍は、織田信康(信秀の弟・犬山城主)をはじめとする約5,000人(数百人と記された史料もあり)が討死したと伝えられています。
大敗を喫した信秀は、わずか6、7名の部下に守られて、尾張国に逃げ帰りました。
この時の戦死者を葬った塚が織田塚です。現在、織田塚は岐阜市霞町と円徳寺境内の二ヶ所にあります。円徳寺の寺伝によると、かつてここから東方に浄泉坊(円徳寺の前称)があり、永禄年間(1558〜1570)に現在地に移転すると元々あった塚が次第に荒廃したといいます。そこで、安永5(1776)年に安八郡神戸村の善学院老僧金龍上人は織田塚を円徳寺境内に移して弔い、塚の上に碑を建てたと伝えられています。現在は円徳寺によって大切に守られています。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R2.10.3
住所: 岐阜県岐阜市神田町6丁目24
関連リンク
タグ
地図
関連情報