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淡河城(神戸市北区)

淡河氏・有馬氏が城主・淡河城
2006年05月14日
カテゴリ : 兵庫県 > 観光 > 建物・史跡
淡河城は淡河氏が築いた城です。
北条時政の三男時房の子時盛が子の時治(朝盛)に承久4(1222)年に播磨国美嚢郡淡河荘を与えました。(北条右近将監成正とも)
そして地頭職として補任され、入部したことに始まります。
以後時治の子孫が淡河氏を称しました。
暦応2(1339)年赤松円心は三男則祐を総大将として志染に陣を布き、南朝の拠点である山田・丹生寺を攻め、さらに淡河・石峰寺・三津田で合戦を行い、この時淡河城も落城しました。
室町時代の明徳3(1392)年、淡河範清は播磨守護赤松氏の一族中嶋彦八郎熙範の嫡男季範を養子に迎えたことにより淡河氏は赤松一族になりました。
天文23(1554)年、、三好長慶の支援を得た有馬郡の有馬重則(月公)が、摂津国衆を率いて播磨に侵入し別所方の城を攻撃しました。淡河城も攻撃され、元範は防戦につとめましたが城は落ち、しばらく淡河氏は没落しました。その後、永禄元(1558)年、別所氏の支援を得て淡河城を回復、別所氏麾下として淡河に勢力を維持しました。
天正6(1578)年2月別所長治、織田信長に反旗を翻したため、羽柴秀吉は三木城を攻めました。
天正7(1579)年4月織田軍淡河城の四方に付城を築き対陣しました。城主淡河弾正忠定範は、6月27日に敵陣に牝馬を放ち牡馬が狂奔したことで寄せ手は大混乱となり、そこへ淡河勢が攻め込みました。羽柴秀長らは多くの戦死者を出し、ほうほうの体で逃げ散りました。大勝を得た後は、三木城に入りました。谷大膳衛好は、羽柴秀吉の部将として平田山に陣を構え、三木城への食糧補給路を断つ任にあたっていましたが、9月10日毛利の将、生石中務と三木城の別所方が平田村の谷大膳の陣を攻撃しました。一方、秀吉も援軍を出し、戦いは秀吉方の大勝に終わったが谷大膳は壮絶な討ち死にを遂げました。
この大村合戦に淡河定範も出陣して奮戦しましたが手傷を受け、主従5騎で逃げ延びようとしましたが、遂に力尽き自害して果てました。
三木城が落城した後、淡河城は有馬則頼に与えられ、慶長6(1601)年まで有馬氏の居城となりました。
関ヶ原の戦いの後、有馬則頼は三田に居城を移したため、淡河城は廃城となりました。
城の遺構は現在、本丸と天守台、堀を残すだけとなっています。幅15m、深さ3~5mの堀に囲まれ、本丸の南辺に東西50m、南北8~16mの天守台を配する構えは、当時の面影を残しています。また、本丸の南東には竹慶寺跡があり、境内には城主淡河氏代々の墓碑があります。
(現地説明板などより)

駐車場 道の駅おうごを利用。(国道428号線、県道38号の交差点近く)

H18.5.14
Photo SONY NEX-7
H26.3.29(写真差し替え)
住所: 神戸市北区淡河町淡河

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