細川館・藤原惺窩誕生地(三木市)
冷泉家は藤原道長の六男長家を祖とします。
定家の子・為家の子の時に二条・京極・冷泉の三家となり、長男・二条為氏、次男・京極為教、そして三男・冷泉為相は細川荘を領有しました。為氏と為相の細川荘の相続争いは為相の母阿仏尼の著書である十六夜日記に書かれています。訴訟の結果、細川荘は、冷泉家の領有となりました。
室町時代の中頃、冷泉家は故あって二つに分かれました。水上にあった方を上冷泉家、水下にあった方を下冷泉家と区別して呼ぶようになり、細川荘は、下冷泉家に引き継がれました。
細川館は下冷泉家が代々細川荘を支配してきた館城です。応仁の乱の後、政為、為孝、為豊、為純と戦火を逃れてこの地に住みました。
戦国~江戸時代の儒学者藤原惺窩は為純の第3子としてこの地で生まれました。天正6(1578)年18歳の時、父為純、兄為勝が三木城主別所長治に滅ぼされました。
惺窩は龍野の景雲寺において禅僧として修行していたため難を逃れました。惺窩は、母や弟妹を伴い、京都に逃れ相国寺に入りました。
その後勉学に励み近世儒学(朱子学)の開祖と仰がれるようになりました。特に朝鮮出兵の捕虜として抑留された儒学者姜沆との出会いで感化を受け、徳川家康には知遇を受け江戸にも招かれ儒学を度々伝授しましたが、学問の自由を守って仕官はすることなく、洛北市原に山荘を構え学研に励みました。
元和5(1619)年9月12日、59歳の生涯を終えました。門弟の林羅山、松永尺五、那波活所、堀杏庵は四天王といわれています。
下冷泉家は、一旦廃絶しましたが惺窩の子、為景が再興を許され公卿として代々朝廷に仕えました。
(現地説明板より)
県道20号沿いから誘導看板有り
H18.5.14
Photo SONY NEX-7
H26.3.29(写真差し替え)
住所: 兵庫県三木市細川町桃津
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