竹中半兵衛の墓(三木市)
三木合戦中に病死した竹中半兵衛の墓
2006年05月14日
一世の軍略兵法家として知られた竹中半兵衛重治は、初め斎藤龍興に属し、後に織田信長に従い、秀吉と共に各地に転戦し殊勲を立てました。
しかし、三木城攻城戦がたけなわの頃、平井山の陣中に胸を病み、一時は京都に移って療養していましたが、固着した戦況を心配し此の地に帰ってきました。
けれども、病魔には勝てず天正7(1579)年6月13日に36歳の若さをもって永歿しました。臨終の時、秀吉に対して将来の「天下人」と予言し息を引き取りました。秀吉は「お先まっくら」と人前もはばからず遺体にとりすがったといわれます。
この墓の維持の為にはその昔から竹中山と称する山林1ヘクタールが村山として残され毎年6月13日は村の老若男女が皆業を休んで供養を続けています。
天保年間に儒者・山田翠雨が平井山の竹中半兵衛の墓に参拝の際漢詩を詠じました。
三軍誰不欽英風(三軍誰か英風をしたわざらん)
(秀吉の大軍は皆,半兵衛公を慕っていた)
力病猶従征戦中(病を力めて猶従う 征戦の中)
(病に侵されながら戦場に出る)
只猴郎唱功業大(英風、功業の大を唱ふるも)
(猿面の如き秀吉が自ら功績を唱えているが)
何知籌策出干公(何ぞ知らん籌策 公に出づるを)
(半兵衛公の策であったことを人は知っているだろうか)
一夜行營落大星(一夜行営 大星は落つ)
(一夜にして戦場で公は消え去った)
惜君萬方不見寧(君を惜しむ万方(くにぐに) 寧(やすらぎ)を見ざるを)
(秀吉の天下統一が済まないうちに惜しいことである)
隆盛孤塚平山翠(隆盛たる孤塚 平山の翠に)
(土を盛り上げた一つの塚が平井山のみどりの中に包まれている)
猶是天正舊典型(猶是は天正の旧典型)
(天正年間の武将の鏡といえる)
墓は綺麗に整備されており、地元でも大事にされているようです。
県道513号三木環状線沿いに案内看板有り
Photo KonicaMinolta Dimage A2
H18.5.14
住所: 兵庫県三木市平井
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