三木城(三木市)

三木城の築城時期は諸説ありますが、明応元(1492)年頃、別所則治が築いたといわれています。その後、代々別所氏の居城でした。
別所氏は播磨の守護赤松氏の一族で季則の二男が平安時代中期の永暦元(1160)年に別所城を築き、別所氏を名乗ったのが始まりとされています。
享禄3(1530)年には浦上村宗により落城し、城主の別所就治は落ち延びました。その後、享禄4(1531)年の大物崩れで浦上村宗が戦死し、別所就治は三木城を奪還しました。
天正6(1578)年には羽柴秀吉による三木合戦が始まり、別所長治は籠城戦をよく戦いましたが、「三木の干し殺し」により戦力が低下、天正8(1580)年1月15日に開城を勧告し、別所長治もこれに応じ一族共に自害しました。
落城後も三木が播磨における京都や大坂からの入口として重要な場所で会ったため、主に豊臣家の直轄地として城代や城番が置かれました。
天正13(1585)年、中川秀政が入城し、中川秀成が跡を継いだ後、一時再び豊臣氏の直轄領となりますが、関ヶ原の戦いの後池田輝政が姫路城主となると、三木城も6つの支城の一つとなり、宿老の伊木忠次が3万石を知行し三木城の城主となりました。その後伊木忠繁が継ぎますが、元和元(1615)年一国一城令によって破却されました。
構造は、本丸・二の丸を中心部とし、新城、鷹尾山城、宮ノ上要害で構成され、南側は山と谷、他三方を崖に囲まれています。土造りの城としては、播磨の中でも最大級の規模を誇っています。
城塀に囲まれた本丸跡に「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」と記された別所長治公辞世の歌碑、銅像があります。
平成25(2013)年3月、三木城の本丸・二の丸・鷹尾山城跡は、領主の居城と攻城側の付城が一体的に残る貴重な事例として、三木城の本丸・二の丸・鷹尾山城跡が、平井山付城跡(秀吉本陣跡)などの付城跡と共に「三木城跡及び付城・土塁」として国の史跡に指定されています。
(現地説明板などより)
城塀に囲まれた本丸跡に「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」と記された別所長治公辞世の歌碑、銅像があります。
平成26(2014)年の大河ドラマ「軍師官兵衛」第17回「見捨てられた城」の「官兵衛紀行」で紹介されました。
神戸電鉄粟生線上の丸駅近く。
駐車場 車で直接上の丸公園へ。
H18.5.14
Photo SONY NEX-7
H26.3.29(写真差し替え)
住所: 三木市上の丸町
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