雲龍寺・別所長治公夫妻の首塚(三木市)
雲龍寺は山号は高源山、曹洞宗の寺院です。
天徳2(957)年、天台宗の僧良源によって創建されました。
この寺は古い歴史のある寺院で、明治維新までは公寺に属しており、特別な上位の寺でした。その創建は村上天皇の勅命によるもので、天皇の勅願所でありましたが、廃絶すること久しく、その後、播磨、備前、美作の守護職であった時の豪族赤松円心入道が古い寺伝を知り、深くこれを惜しんで朝廷に再建を奏請して、そのご聖慮に沿い天皇より高源山の山号を賜りました。
時は後醍醐天皇の元享2(1322)年で天皇の祈願所となりました。
のち、文明年間になって、時の城主別所加賀守就治が異忠禅師を招いて再建し、そのとき規模を一新して禅寺として開山した寺院であると伝えています。
羽柴秀吉との三木合戦時には、三木城内にあったため、殿堂及び伽藍は焼失しました。
天正8(1580)年、1月17日、一族の最後を弔うために雲龍寺7世の住職春泰禅師が、三木城主別所長治公の自害の席に招かれ、後事を託され「天目茶碗」と「唐子遊びの軸」を形見に贈られました。
長治公は「三木の干殺し」といわれる兵糧攻めを受け、家臣や領民の命を救うことを条件に自害しました。照子夫人も運命を共にしました。
首は秀吉の陣地から安土に送られましたが、春泰禅師が安土より首級を持ち帰り年頃に埋葬祭祀しました。
三木城開城後、領主となった杉原伯耆守が秀吉に上訴して再建しました。
天正13(1580)年、秀吉から境内山林竹木並びに三十石の寄進状及び制札を賜り、以後代々の徳川将軍家より御朱印状を承りました。
秀吉の兵糧攻めに遭い、城内の藁まで食べたとの言い伝えにより、当寺では毎年1月17日に藁に見立てた「うどん」を食べて当時を偲ぶ会が催されています。
また、昭和17(1942)年、帝国在郷軍人会三木分会によって辞世の歌碑を建て首塚の補修が行われました。
昭和48(1973)年3月、別所公奉賛会は、さきに三木城再興の構想趣意に賛同され寄進された浄財と首塚修復に当り寄せられた市民有志の浄財で玉垣を建立し、併せて照子夫人の霊を合祀しました。
(現地説明板などより)
H18.5.14
Photo SONY NEX-7
H26.3.29(写真差し替え)
住所: 兵庫県三木市上ノ丸9-4
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