戦国時代(長沼氏時代)の山城と、蒲生氏以降の山麓部に遺構が残る鴫山城
2021年03月01日
鴫山城は、南会津町田島地区にそびえる愛宕山の山頂部の急斜面や、山麓部の緩斜面、尾根、谷間等に土塁や門、堀等が構築された、自然の地形を利用し築かれた山城です。鴫山城の築城年代ははっきりとしていませんが、室町時代の長禄3(1459)年に山内越中と白川氏が「南山しき山の城」を攻め落としたことが記録として残っているので、少し前の南北朝時代には存在していたとされています。
鴫山城一帯は長沼氏が支配していたため、鴫山城を築城したものも長沼氏と推定されます。
天正17(1589)年の摺上原の戦いで蘆名氏が滅亡すると、鴫山城主長沼盛秀は伊達政宗に臣従し、伊達勢力ととも河原田盛次が守る久川城を攻撃しています。
長沼氏は天正18(1590)年、豊臣秀吉による奥州位置によって伊達氏に従い鴫山城を去ります。長沼氏が去った鴫山城には、蒲生氏郷家臣小倉作左衛門が6千3百石で城代となり入城しました。
慶長3(1598)年には上杉景勝の会津移封に伴い、上杉家執政直江兼続の実弟・大国実頼が2万1千石で城代となりました。
その後、徳川三代将軍家光の時、寛永4年(1627年)に元和の一国一城令により廃城となりました。
鴫山城は標高750mの愛宕山北辺部に築かれ、全長は南北に700mで、山頂部の350mは急斜面、山麓部の350mは緩斜面となっています。山頂から山麓にかけて、尾根や谷間などの自然地形を利用して、土塁や門、堀などが構築されています。愛宕山山頂には現在、愛宕神社が祀られていますが、戦国時代(長沼氏時代)はここが城の本丸であり、本丸の北東と西方向に削平して階段上になった曲輪群が上から下へ続いています。本丸から北東部の曲輪群をやや下がると、主水曲輪、御茶屋場と呼ばれる比較的広い平場が現れますが、山頂部から御茶屋場一帯あたりまでが長沼氏時代の城郭跡と推定されます。
山麓部には愛宕神社参道に沿って、侍屋敷跡、大門跡、御平庭、上千畳(本丸跡)、下千畳(二の丸跡)、空堀などの遺構が見られ、大門跡に石垣が復元されているほか、御平庭は公園化されています。これら山麓部は、蒲生時代以降の城の中心部と見られています。
上千畳は昭和54(1979)年に発掘調査され、書院建築の礎石群や庭園状の遺構が検出され、蒲生氏・上杉氏時代の本丸跡と推定できます。
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R2.12.29
住所: 福島県南会津郡南会津町田島根小屋甲