丸亀藩網干陣屋(姫路市)
丸亀藩京極氏の陣屋跡・丸亀藩網干陣屋
2022年02月16日

この地は、かつて羽柴秀吉が別邸(鶴松亭)を建てたところでした。
天正8(1580)年、秀吉から揖東郡(現:姫路市網干区)一万石を賜った官兵衛は、揖保川河口・沖之浜洲の陣屋に秀吉を招待し茶会を催しました。茶会の当日、秀吉の近くの席の大松には一羽の鶴が見事な巣をかけており、その優美な光景を大いに喜んだ秀吉は、以降陣屋の名を「鶴松亭」と呼ぶように命じたそうです。
江戸時代初頭は姫路藩領でしたが、曲折の後、寛永14(1658)年に龍野藩領となりました。万治元(1658)年、当時の龍野藩主京極高知は四国の丸亀藩へ移封されましたが、網干地区二十八ヶ村(一万石)だけは引き続いて京極家領となり、以来明治まで丸亀藩の飛地でした。
丸亀藩は、興浜村に網干陣屋を設け、代官・奉行などを配置していた。現在の網干幼稚園は大監察屋敷跡であり、明治維新で建物はほとんど取り払われたが、門だけが残されました。かつて揖保川の近くに西面して建っていた陣屋門は、明治3(1870)年この地に移築され、永らく興浜の壇尻庫として利用されていました。
現在の建物は、老朽化した旧陣屋門を参考にして、昭和62(1987)年度に改築されたもので旧にならって軒丸瓦には京極家の家紋が用いられています。
明治3(1870)年の絵図によると、網干陣屋及び武家屋敷は揖保川東岸の南北二郭から成り、南郭は長辺が揖保川に面する三角形状、北郭は台形状を呈し、南郭北端部と北郭東南端部が連結され、それらの南に町屋が広がっていました。揖保川境には土塁が巡っていました。
北郭は南の町屋との間に掘を設け厳重に区画されるのに対し、南郭の南側は石垣と土塀の構えとなっていました。南郭は東西に二分割され、西半は陣屋屋敷が占め、東半は武家屋敷、御社地(金刀比羅神社)、藩校の明輪館を配し、陣屋屋敷との間の揖保川寄りには貢米蔵が建ち並ぶ津出場が設けられています。陣屋屋敷の主要な門として、郭内を東口に開口する長屋門と屋敷地の南側中ほどにあり、直接町屋側(東)に開口する御門がありました。また陣屋の屋敷地西南端に角櫓が建ち、町屋側に城構えの携帯を見せていました。これらの範囲は、現在の本町北半を占め、 陣屋屋敷跡にあたる興浜公園と金刀比羅神社を含む三角形状の一画と、その西北の網干幼稚園表通りから北の一画に及んでいました。
〔現地説明板などより)
Photo Canon EOS M6
R4.1.29
住所: 兵庫県姫路市網干区興浜80−1
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