五品嶽城(庄原市・旧東城町)
宮氏、佐波氏、長尾氏が居城した五品嶽城
2022年04月27日

五品嶽城(ごほんがだけじょう)は、備中・伯備との国境に近い東城盆地を望む位置にある中世末期から近世初期(17世紀)にかけての山城で、標高は484m、比高は185mである。五本竹城、世直(よなおし)城とも言われました。
築城年代は明らかでありませんが、宮氏が築城し、のち大富山城を築いて西に移るまで、宮氏の本拠とされました。以来、宮氏はこの城を東城、大富山城を西城と呼びました。
宮氏が毛利氏の命上で出雲に転出したあと、天正19(1591)年には石見国から佐波越後守広忠が東城城主として赴任しました。佐波氏は菩提寺を川東の千手寺に合併し、寺領を寄進しています。しかし佐波氏も慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いののちは毛利氏に伴って萩に移りました。毛利氏のあと芸備49万8千石の太守に任ぜられた福島正則は、小方・東城・三原に支城を構え、その三家老のひとり長尾隼人正一勝を東城の城主に任命し、備中・伯耆の国境守備にあたらせました。
東城在勤の隼人組の総知行高は1万282石4斗で与力侍は12人でした。
菩提寺を千手寺、祈願寺を法恩寺と定め、城常什物(備品)として大般若経600巻を入手し、法恩寺の僧を城に招いて祈願法要をおこない、後にこれを法恩寺に寄進しています。
また、東城市街地の近世的で本格的な町づくりを積極的に進め、都市計画にもとづく町内の区割りをし、城名を「世直城」、城山鎮守社を「世直神社」と改称していますが、町づくりにおいても「世直り、世直し」の意気込みでとりくんだことが想像できます。
長尾隼人正一勝の死後、子の勝行が供養のために建立した供養塔が千手寺にあり、花崗岩製の五輪塔で、五輪塔形式のものですが、形が大きく良く整っており、勢力の大きさを表したものといえる、銘名が地輪にあります。
しかし元和元(1619)年には福島正則も広島城の無断改修を理由に改易され、長尾氏も津山に去って、この城は廃城となりました。
この城は東城の町並みを東眼下に見下せる通称城山に築かれたもので、西側に続く山並みとは鞍部を掘り切って深さ約15mの堀切としています。郭群は頂部の常の丸、太鼓の平を中心に北東方面にのびる尾根の上にケヤキが平、カヤの平とほぼ連続してて設けられていますが、山麓にも杉の平、物見が丸などの郭がみられます。
この城は、宮氏の築城による中世遺構の上に佐波氏・長尾氏による石垣、櫓、瓦葺建物などの近世初頭の技術が加えられている点に特色があります。近世初頭以降は手が入っておらず完全に近い状態で保存されており、学術的に貴重です。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R4.4.16
住所: 広島県庄原市東城町東城
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