隠岐神社(海士町)
隠岐神社の御祭神は後鳥羽天皇です。
第82代後鳥羽天皇は、承久3(1221)年隠岐国海士に御遷幸され、御在島19年の後、延応元(1239)年 旧暦2月22日都への御還幸の望みも空しく、崩御遊ばされました。
御遺骨は北面の武士・藤原能茂が奉持し京都の大原の里に納め奉りましたが、その大部分は行在所源福寺境内の一角に納め奉りました。現在の御火葬塚のところです。
江戸時代初期頃までは片石を置いて標識としたといいます。
慶長13(1608)年、隠岐に配流になった飛鳥井少将雅賢は御陵を敬う念が篤く、これを修理されました。
万治元(1658)年に至って時の松江藩主松平直政は御廟を造営し、次いで享保年間にも再建しましたが、その後江戸末期に至る頃には廟は腐朽して雨露のおかすありさまでした。
源福寺住職は、村人等と相議り祠殿を造営して村民と共に天皇を奉斎し、明治6(1873)年御神霊御還遷に至るまで年々祭典を執行して崇敬の誠を尽くしました。
明治7(1874)年祠殿が取り壊された後も御陵並びに源福寺跡において海士村民は祭祀を斎行し続けてきました。
このように村民挙げての崇敬祭祀の至誠は島根県知事を会長に戴き、隠岐神社造営奉賛会を組織し、昭和14(1939)年後鳥羽天皇七百年祭を期に由縁深い聖地に隠岐神社を創建し鎮座祭が執行され、昭和18(1943)年4月県社に列せられました。
本殿・拝殿・神饌所・祭器庫・神門廻廊・講堂・社務所などの施設があり、境内は約1万2千坪、参道の桜並木は隠岐島一の花の名所として知られています。
後鳥羽天皇は、文武両道に秀でられていましたが、特に和歌の道にご造詣が深く、勅撰「新古今和歌集」は後鳥羽天皇の詔になるものです。御在島19年の間に多くの秀歌を遺しておられ、中でも「遠島御百首」は院の絶唱として知られています。
境内には 後鳥羽天皇御製をはじめ日本芸術院会員で宮中歌会始の撰者をも務められた宮柊二の歌碑や俳壇の巨匠加藤楸邨の句碑などがあります。
隣接する海士町後鳥羽院資料館には、後鳥羽天皇に関する資料を中心に考古資料等が展示されています。
Photo Canon EOS 5D Mark IV
R5.5.4
住所: 島根県隠岐郡海士町大字海士1784
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