西鄉隆盛〔南洲〕留魂詩碑・留魂祠(大田区)
勝海舟夫妻墓所に隣接してある西鄉隆盛〔南洲〕留魂詩碑・留魂祠
2023年09月30日

明治維新の英傑、西鄉南洲(隆盛)と勝海舟は、大政奉還後の江戸城の明け渡し交渉によって、江戸の町を戦火より救われ、首都東京の基を築かれたことでも著名です。
海舟は、晩年、この洗足池畔に洗足軒と呼ぶ別邸を設けられ、隆盛と日本の将来について歓談されたと伝えられます。隆盛はその後、明治10(1877)年の西南戦争により、故郷鹿児島において子弟三千余と共に逝去しましたが、これを惜しまれた勝海舟は勝海舟が、親交のあった西郷隆盛(南洲)の死をいたみ、詩とその筆跡を造すため、三回忌にあたる明治12年(1879)に自費で建てたものです。もとは葛飾区の浄光寺にあったものが、大正2年(1913)の荒川開削工事に伴い当地に移設されました。
内容は西郷が沖永良部島の獄中で作った七言律詩で、天皇に対する忠誠心が詠まれています。「願留魂魄護皇城」の文言から留魂詩(りゅうこんし)と称されました。背面には勝の撰文で由来が記されています。
明治16年(1883)の西郷隆盛七回忌に際して、勝海舟から同志達に留魂詩碑の存在が明かされると、彼らはその傍らに小詞を建てて「留魂祠」と名づけ西郷の霊を祀りました。
この留魂祠は、もと東京南葛飾郡大木村上木下川(現、葛飾区東四ツ木1-5-9)の薬妙寺境内にありましたが、海舟の遺志により、大正2 (1913)年、石碑とともに現在の地へ移されました。右隣には勝海舟夫妻の奥津城(墓所)があり、維新の両雄は、いまなほ相並んで我国の将来を見守っています。
留魂詩碑、留魂祠周辺には他に碑が建てられています。
南洲先生建碑記は、留魂詩碑の工事を勝海舟に任された玉屋忠次郎が明治16(1883)年に建てたものです。留魂詩が明治12(1879)年7月27日に彫刻され、谷中の石工群鶴の元から浄光寺に至る経緯が記されています。
勝海舟追慕碑は、大正2(1913)年に勝海舟門下生の富田鐡之助が記したもので、留魂詩碑が建立されてから現在地へ移設されるまでの経緯や、有志により留魂祠が建てられたことが記されています。
徳富蘇峰詩碑は、昭和12(1937)年数名の者が計画し、勝海舟門下生の1人であった徳富蘇峰に詩を書いてもらい建てたものです。勝と西郷隆盛によって江戸庶民の命が救われた偉業を称え、両雄を偲ぶ内容が刻まれています。この碑が完成した際に、隣接する清明文庫で記念講演が開かれており、その様子が写真で残されています。
Photo Canon EOS 5D Mark Ⅳ
R5.9.17
住所: 東京都大田区南千束2丁目3
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