長州藩初代藩主毛利秀就公誕生の地(宇部市)
毛利輝元の長男・毛利秀就公誕生の地
2024年02月21日

毛利秀就は毛利輝元の長男で、天正19(1591)年1月20日、この地長門国厚東郡小野村の領主財満就久の土居内、別名西御前で誕生しました。
ここにはその時の産湯の池のほか、生まれた時建てた若宮神社や高良神社もあります。
幼名を松寿丸といい、後に毛利家55代長州藩初代の藩主となった人です。
天正13(1585)年、豊臣家の五大老が大坂城に出頭した際、輝元には子供がないのを見て、豊臣秀吉は甥の木下秀秋を継子に薦めました。しかし小早川隆景は不服で、「私の弟の穂田元清の子秀元を、輝元の継子にすることに決めている」といって断りました。すると秀吉は輝元にそのことを念書に書かせ、輝元の継子は秀元に決定しました。
秀就の実母は児玉元良の娘で本名を周姫といい、天正12(1584)年徳山の領主杉元宣と結婚しましたが、天正15(1587)年輝元の横恋慕で家来の杉山土佐守元澄らに拉致させ、側室を拒むと実家は改易しその上夫の元宣までも暗殺されたので仕方なくわが運命と諦めて側室になり、まだ建設途中の広島城の二の丸に匿われました。そして誰いうとなく二の丸様と呼ばれていました。
天正18(1590)年二の丸は広島城の二の丸で妊娠しました。輝元は正室南の方の嫉妬確執を恐れ、広島城に置いておくことが出来ません。二の丸(周姫)を毛利水軍の相島仁衛門たちに、船で宇部沖から厚東川を上り、隠密にしてこの地に連れて来らせ、天正19(1591)年に秀就は誕生しています。
途中まで出迎えに行った領主の財満就久は「この女は俺の妾で子が授かったから」といって身分を隠して館に入れました。その時、輝元からの密書が添えられていました。「産まれた子が女ならそちに遣わす。男なら殺せ」と書いてありました。生まれたのは男児でした。財満就久は殺すには耐えられず、小早川隆景に相談すると「今は議論している時ではない。暫く待て」といって待たされました。
年号は改まり間もなく文禄元(1592)年、小早川も毛利も軍勢を率いてもう朝鮮に渡る直前でした。秀就の幼名は松寿丸と称し、生後4年ばかり小野村に滞在していました。その間3歳の時には毛利の氏神・厚東村の恒石八幡宮に参拝した記録もあります。また、朝鮮に渡る輝元が二の丸を哀れんで、彼女が姉のように慕っていた従妹を嫁がせた寺院小野村からほど近い縁木村明林寺の第三世坊守の所にも何度か行っています。
明治5(1872)年に建てた、現在の山陽小野田市有帆のの若宮神社の祭神は、小野村の若宮神社毛利秀就の分霊であることが、この神社の記録だけでなく、神社庁の記録でも判明しました。
文禄元(1592)年に二の丸を残して朝鮮に出征した輝元は、翌文禄2(1593)年には病気を理由に単身帰国して、二の丸だけを連れて大坂に行っています。
文禄3(1594)年、輝元の継子になっていた秀元は秀就の誕生を知り「わたしはこの職を秀就に譲り、終生秀就に忠誠を尽くす」と輝元に進言し、翌年朝鮮に渡り毛利軍の陣頭指揮をとっています。
また同年、小早川隆景も朝鮮から単独で帰国し、小早川家の養子にしていた未弟の秀包を離縁して、以前天正13(1585)年に豊臣秀吉が薦めた甥の木下秀秋を小早川家の養子に迎え、その代わりにこのたび生まれた輝元の長男秀就を、豊臣秀吉から毛利家の後継ぎにする許可を得ています。
日本の歴史では『毛利秀就は、文禄4(1595)年10月18日、広島城で誕生した』というのは嘘で、小野村で誕生した秀就を広島城に連れて行ったのが文禄4(1595)年頃だと、当時の領主財満家に記録が残っていました。
誕生の地碑の他、秀就の実母二の丸殿の顕彰碑などがあります。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R5.12.31
住所: 山口県宇部市小野2707
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