仁位山城(佐用町〔旧上月町〕)
上月合戦に使用されたとみられる仁位山城
2024年04月08日

仁位山城は上月城に近接しており上月合戦に使用されたとみられます。
別名仁位の陣山とも呼ばれ、標高233m、佐用川を挟んで上月城と対時する位置にあります。
城についての記録はほとんどありませんが、「赤松家播備作城記」には天正5(1577) 年の上月合戦の際に安藤信濃守が拠ったとの記述があります。
佐用郡は中国地方との境にあり西国の雄、毛利氏と織田氏の戦いの最前線となりました。これが上月合戦として知られる戦いです。
長の命を受けた羽柴秀吉はまず播磨攻略を進めていましたが、佐用郡内には上月城をはじめ三つの城が毛利方について敵対していました。
佐用郡に侵攻してきた秀吉は高倉山に本陣を構え、上月城に対する仁位山を付け城にしたようです。12月に上月城を落とした秀吉は尼子勝久、山中鹿之助主従を上月城に入れ守らせますが、翌年、毛利氏の攻撃を受け、上月城の周囲の山々には毛利氏の攻撃を受け。上月城の周囲の山々には毛利氏の陣城が築かれます。位山もその一つとして利用されました。このとき播磨国内では反織田に寝返った三木城などへの対処で秀吉は救援に来れず、包囲された尼子勝久は自刀、山中鹿之助も捉えられ移送中に殺され尼子氏再興の夢は消えます。これが戦前の教科者に「三日月の影」として山中鹿之助の忠君ぶりが描かれ、上月合戦がよく知られる一因でもあります。
しかし、中世播磨は守護赤松氏の支配するところであり、代々上月城も赤松一族の居城であり、上月合戦のときは赤松七条家の政範が城主と伝えられています。
江戸時代初期に「播州佐用軍記」という軍記物が編まれ、江戸時代後期には合戦250年忌が営まれ、上月城跡には石神が建てられています。
この城が造られた年代については、今のところ同じ施設を持つ城が町内には、ほとんど認めらませんが、毛利氏が中国地方の城に多くの連続竪堀を持つ城を築いており、そのような城と仁位山城の施設との共通性が指摘されています。
これらのことより、この城は天正5(1577)年の赤松氏が籠もる上月城攻めでの織田氏によるものではなく、天正6 (1578)年の尼子氏が籠もる上月城攻めでの毛利氏によるものではないかとの指摘もあります。
城は南東から派生する尾根筋の一端にあり、北・南は比較的急傾斜、西側はやや緩やかに下り、南東は幅の狭い鞍部で他の山につらなります。最高所は標高233.3mを測ります。
構造は臨時の陣城としての性格が認められ、最高所の曲輪には南側に階段状の曲輪、北側には掘切が配されています。
仁位山城より高倉山城方面に尾根道を約400m程行くと大きな窪地が三つあります。地区の長者の話によると、秀吉が上月城の残党を処刑した場所らしいと、代々伝わっているようです。又窪地の下に、因果関係はわかりませんが、光明真言の石神があります。処刑された人を供養したのでしょうか。詳しいことはわかりません。
又、仁位山城の下に寺山と地名のついた山があります、ここにも石で囲って石碑があります、ここも仁位山城との因果関係はわかりません。
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R6.3.18
住所: 兵庫県佐用郡佐用町仁位
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