伊達小次郎君の墓(登米市〔旧津山町〕)
伊達政宗の弟・伊達小次郎君の墓
2024年05月26日

伊達小次郎君は仙台藩主伊達政宗の只一人の弟です。
政宗は、天正17(1589)年、会津の芦名氏を磐梯山麓の摺上原に破り、黒川城に入りました。中央では豊臣秀吉が天下の統一を進め、小田原の北条氏を攻め、政宗にも小田原参陣を命じてきました。天下の形勢が秀吉に傾くのを見た政宗は、ようやく小田原参陣を決意し、天正18(1590)年4月5日、小田原参陣の無事を願うという母公御東様の招きの宴に、黒川城の西館に行きましたが、膳番の者が毒味をしたところ、たちまち血を吐いて死に政宗毒殺の陰謀が発覚しました。(政宗公が食したという説もあります)
調べてみると、秀吉の家臣となっていた芦名家を滅ぼしたことによる、秀吉の怒りを解くため、政宗を亡き者として、弟の小次郎君を家督に擁立しようとした母公の謀略と判明しました。母公は陰謀が露顕すると、その夜のうちに山形の生家最上家へ逃れました。
政宗は4月7日、小次郎君のお守役小原縫殿助の屋敷で、小次郎君を自ら成敗し、七代の勘当を言い渡しました。「お竺(小次郎の幼名)許せよ。そちに罪はないが母の罪を問うことはできぬ。故にこうしたのだ。」と、政宗も涙を落とされました。
小原縫殿助は、小次郎君の遺骸を擁して密かに黒川城を出、始め福島の某寺に埋葬しましたが、天正19(1591)年秋、秀吉の東北仕置により、政宗は会津の地を召し上げられ、新たに、旧葛西氏、大崎氏の領地が与えられました。この時、政宗公は本吉郡横山の地を母公の化粧領地として当てられました。
小原縫殿助は、母公から内密の命を受け、伊達家の領地でなくなった福島から、母公の化粧領地となった横山のこの地に小次郎君の遺骸を改葬しました。文禄元(1592)年1月でした。改葬し終えた縫殿助は2月に殉死し、墓はこの山の南面にあります。
時は流れて200年後、七代の勘当が解かれた寛政5(1793)年2月に8代藩主斉村公は名代を遣わされて供養を行いました。
明治26(1893)年5月には、地元有志や長谷寺住職、本吉郡長が発起人となり、現在の墓碑を建立して参百年祭の大法要を行いました。
昭和62(1987)年3月には、地元有志によって「伊達小次郎君奉賛会」を設立し、四百年祭の大法要を行い、悲運の公子小次郎君の御霊をお慰めしました。
また、少し山を下ったところに小次郎君のお守役で殉死した小原健殿之助定綱の墓が小次郎君の墓を見守るようにあります。
昭和62(1987)年に放送された大河ドラマ「独眼竜政宗」第32回「秀次失脚」のオープニングで紹介されました。
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R6.5.5
住所: 宮城県登米市津山町横山
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