土井城(白浜町〔旧日置川町〕)
国の史跡に指定されている土井城
2024年06月13日

熊野水軍の一翼を担った安宅氏が築いた城館群が、「史跡 安宅氏城館跡」です。
安宅氏居館跡は、八幡山城、中山城、土井城、要害山城、勝山城、大野城、大向出城があり、令和2(2010)年3月 10日付で、比較的大規模で良好な状態で遺存しており、鎌倉時代から戦国時代にかけて、水軍領主の活動や領域支配の実態、紀伊半島の政治情勢などを知ることができる稀有な事例であるとして、八幡山城跡 中山城跡 土井城跡 要害山城跡は国の史跡に指定されています。
土井城は、標高約110mの天徳寺裏山に位置しています。平成20(2008)年度に測量調査が実施され、これまで不明瞭であった城跡の全体像が把握されています。
南北に伸びる尾根上に位置しており、南北約20m東西約80mの規模を測ります。
曲輪は全部で四つ確認されていますが、やや造成が甘い部分も見受けられます。
横堀1は東西方向に約64m、堀底平担部の幅が約4mを測ります。土塁の幅は1m以上あり、天端部において人が活動するのに充分な幅と平面をもたせています。現在では部分的にしか確認できませんが、土塁の両側を石積によって補強しています。内側の石積には土塁を補強する意図とともに、堀の内部の面積を確保する役間を同時に果たしています。また東端部においては自然地形を改変し、虎口をつくりだし、その外側に石積が施されています。
堀切についでは、城域内の北側尾根に集中しています。つまりは富田荘側への備えとして尾根を寸断して堀切を楽いており、曲輪Ⅰの直下に仕置している堀切1については岩盤を削り、大規模な土木工事をおこなっています。
土井城は、急峻な尾根上に横堀・堅堀・堀切等の遮断施設や曲輪を効果的に配置し、高い防御性を補える比較的まとまった城跡として評価できます。
平野側(安宅荘側)と山地側(富田荘側)の両者に対して有効な防御施設を備し、街道への備えとしての役割を果たしています。
富田荘との境目の前線基地的役割を果たしていたと考えられる高瀬要害山城も小規機ながら畝城空堀群等を備え防御にたけた城跡として捉えられています。
この三つの城跡に通するのは、安宅荘にとって軍事的に重要な位置を占め、防御性に力点を置いた城づくりが為されている点です。
また、同じ田野井地域に位置する中山城は、平地の居館と山地の山城との中間的な存在である館城としても捉えられる可能性があり、二重の横堀や切岸によって平地にありながらも、防御性に優れた城跡となっています。
土井城が中山城の詰城となる、いわゆる根小屋式の関係どまでもはいえないかもしれませんが、ぞの位置関係がら相互補完的にそれぞれが役割を担っていたと考えられています。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R6.5.31
住所: 和歌山県西牟婁郡白浜町田野井
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