満舟寺(呉市〔旧豊町〕)
満舟寺は,山号は南潮山、真言宗の寺院です。
平清盛が草庵を寄進したのが創始とされ享保3(1718)年に観音堂が建てられ各地の商船から寄進を受け,18世紀半ばまでに現在のような寺院の規模を持つようになりました。その後、豊田郡納所村(現三原市)にあった浄土宗松桂庵の寺号を貰い受け、真言宗への転宗と寺号の改称の許可を得て、正式な寺として認められています。
境内には、本堂のほか、観音・住吉・金毘羅の神仏を祀った三社堂、鐘楼が残っています。
本堂の額は、琉球使節に随行していた中山の楽師・梁光地が揮毫し、それを住持と伊予俳壇の指導者・栗田樗堂 (くりたちょどう) が掲げたものです。また、本尊の「十一面観音菩薩立像」は奈良時代の高僧行基作と伝えられる秘仏で、三十三年に一度ご開帳されています。
石垣は,享保18(1733)年~寛延4・宝暦1(1751)年の間に築造されたと考えられています。満舟寺のような巨大な石垣は,安芸灘島嶼部においても希有な物件です。豊臣秀吉が天正13(1585)年の四国攻略の際に、加藤清正に築造させた城跡だという伝承があります。一説には、それ以前、伊予国守護河野氏に属していた来島村上氏が御手洗にある「海関」の警護にあたったとされることから、その警護所との関係も取りざたされています。
いずれにしても、御手洗が埋め立てにより形成される江戸中期以前は、海岸線がここまであったことが伺われます。 しかし、この石垣に関する記録は一切なく、満舟寺境内の整備に伴って築かれた可能性もあります。
ちなみに、戦国時代中期、三島水軍の領袖であった大三島の大祝氏は、周防国守護大内氏の侵攻を受け、天文10(1541) 年と天文12(1544)年、御手洗沖を主戦場に度々海戦を行っています。こうしたことからも、この地になんらかの水軍拠点があったことが想定されます。
その他境内には、芭蕉百回忌に建てられた「誰彼塚」や、小林一茶と親交の厚かった伊予俳壇の中心人物・栗田樗堂の墓など、俳句にまつわる事跡が多く残されています。
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R6.9.15
住所: 広島県呉市豊町御手洗310
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