浜田城(四日市市)
現在鵜森神社となっている浜田城
2025年03月20日

浜田城は藤原秀郷の子孫、田原忠秀により文明2(1470)年に築城されました。
田原氏(浜田氏)は、応永元(1394)年上野国赤堀庄から伊勢国三重郡栗原村に所領を移し、栗原の地名を赤堀と改めて赤堀城を築いた田原孫太郎景信の後裔・赤堀三家(羽津・赤堀・浜田)
の一つで、お伽草子に描かれた三上山の百定退治や平将門の討伐で勇名を轟かせた俵(田原)藤太秀郷の末裔です。
永禄2(1559)年工藤右衛門祐治が浜田城攻略のために塩浜に上陸。その際、城主田原遠江守元綱の息子田原与右衛門重綱は、赤堀の援兵を得て追い散らしたと言われています。いわゆる塩浜合戦の始まりです。それから10余年後、織田信長の家臣滝川一益により攻略され、天正3(1575)年6月6日、四代にわたる百年の歴史を閉じました。「伊勢軍記」によれば、城主元綱の援軍要請に応じる者なく、わずか百余人の城兵にて防戦。落城前、元綱は息子重綱を城から逃がし、城に火を放って自害したと伝えられています。、浜田城主・田原遠江守元綱(は、織田信長の武将・瀧川一益との戦いに敗れ、浜田城は落城しました。落城後の浜田城は、織田の家臣である滝川一益や織田信雄の家臣・滝川雄利が一時入城し、修築したとされています。
落城寸前に、田原元綱の息子である与右衛門重綱は、元綱の命によって脱出し、難を逃れました。その後、皮肉にも織田信雄に仕えましたが、天正12年(1584)に豊臣秀吉と織田信雄が対立した美濃・加賀野井城の戦いにおいて討ち死にし、田原家は滅亡しました。さらに、秀吉は浜田城に立てこもった滝川雄利を攻め、浜田城は完全に落城しました。
城跡は、現在鵜森神社となっています。
落城後、城主・田原家の旧臣たちが、慶長年間から万治年間(1596~1658)の間に、鵜森大明神を創立し、田原家の祖である田原藤太秀郷および、初代浜田城主・田原美作守忠秀以下四代の霊を祀ったといわれています。
その後、天保8(1837)年に、別社として御霊社を創建し、忠秀以下四代の霊を改めて祀りました。忠秀の次男で、堀木家の始祖となった弥兵衛秀常の孫である定直が、中心となって城跡に祠(ほこら)を建てたのが始まりであると考えられています。定直は浜田家(浜田城築城後、田原家は浜田家と改名しました。)直系の子孫であり、慶長年間に浜田村の庄屋を務めた村の最有力者でした。浜田家滅亡後も、伝来の兜を保管していたとされる人物です。
そして、鵜森大明神に、天照大御神と建速須佐之男命を祀り、明治に至りました。
明治42(1909)年には、神社合祀により、菅原神社、御霊社、鵜森大明神を統合し、従来の鵜森大明神を現在の「鵜森神社」に改称しました。
神社の社宝として十六間四方白星兜鉢があります。田原氏(浜田氏)の先祖です田原藤太秀郷にゆかりのあるものとして奉納されたと言われています。鉢は16枚の鉄板を制ぎ合わせて半球状にかたどり、その四方には薄い鍍銀板を被せた形跡がみられます。
かつて保管箱には「松平相模守栗田右衛門尉寄進 万治二年一月吉日」と銘があり、また、袱紗の端には「因幡国住人馬淵源三郎」という縫文字もあったと言われていまする。鎌倉時代の特色が強く表されている作品です。
城跡に平成28(2016)年10月、冠木門が復元されました。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R7.3.14
住所: 三重県四日市市鵜の森1丁目13−6
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