采女城(四日市市)
采女城は、標高50~70m(比高30~50m)の三つに分かれた丘陵尾根を利用した放射状連郭の平山城です。城の西側から北側にかけては深い谷が巡り、南側は内部川とその支流である足見川によって防備された要害の城となっています。
城域内には二つの谷が入り込み、この谷によって三つに分かれた丘陵尾根に九つの郭が配置されています。采女城は、高い土塁や深い空堀、屈折した形態の虎口、櫓台の存在など、北伊勢地方における戦国時代の典型的な城館の様式を残しています。
藤原氏を祖先とする後藤家の後藤兵衛実基は、保元・平治の乱において武功を挙げました。後藤左衛門尉基清は検非違使として京都守護に活躍し、元久元(1204年)年には平賀朝雅の討伐に尽力しました。
後藤伊勢守基秀は、文応元(1260年)年に先陣を務めた功績によって三重郡の地頭職となり、一族郎党を引き連れて采女の地に移住しました。そして、采女山(北山)に城郭を築きました。以来、三百有余年にわたって治政が続きましたが、後藤采女正藤勝の時代に織田信長の侵略に遭いました。
関家・蒲生家と協力して戦いましたが、永禄11年(1568年)、織田信長の家臣・滝川一益が六千余人の兵を率いて北方より来襲しました。城の周囲の家々に放火し、頃合いを見て采女城を四方から攻め立てました。采女城には五百余人の兵が集結していましたが、大混乱に陥り、ある者は奮戦して討ち死にし、ある者は逃亡しました。
城主・後藤采女正藤勝は、燃え盛る火中で割腹し、果てたと伝えられています。その際、千奈美姫や奥方も深井戸に身を投げ、亡くなったといわれています。後の時代の人々の間では、「夜な夜な井戸から女のすすり泣きが聞こえる」や「馬のいななきや女人の悲鳴が細く尾を引く」といった話が語り継がれています。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R7.3.14
住所: 三重県四日市市釆女町
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