楠城(四日市市〔旧楠町〕)
中島氏、楠氏の居城だった楠城
2025年03月21日
楠城は、正平24(1369)年に伊勢国司・北畠顕泰によって築かれ、信濃国諏訪氏の一族である諏訪十郎貞信が初代城主となりました。その後、二代城主となった有益は北畠顕泰から中島四郷を与えられ、中島氏を名乗るようになります。
三代城主・貞則は、兄の貞益とともに北畠満雅に反旗を翻したため、楠城の支配権は楠一族へと移りました。四代目は楠正威(楠正顕の三男)、続いて五代・楠正充、六代・楠正忠、七代・楠正具と城主が引き継がれていきました。
永禄10(1567)年、織田信長の命を受けた滝川一益による北伊勢侵攻が始まると、北伊勢の諸城は次々と織田方に降伏しました。しかし、楠正具は治田城に立てこもり、最後まで抵抗したと伝えられています。その後、正具は天正4(1576)年の大坂石山合戦で戦死しました。
楠氏の血筋を引く村田正盛が城主となり、織田信雄に仕えましたが、天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いの際、美濃国加賀野井城で羽柴秀吉軍の攻撃を受けて戦死しました(一説には、天正10(1582)年に尾張国戸田城で戦死したとも伝えられています)。
楠城は、東に伊勢湾を望み、鈴鹿川とその派川の三角州に築かれた平地の城でした。三方を川に囲まれた地形は、要害として非常に優れていました(『南山遺響』)。
かつて、この地は「名草の浦」とも呼ばれ、『千載集』には次の歌が詠まれています。
浦つたふ 朝も名草の 浜千鳥
夕汐みちて 空になくなり
天正12(1584)年、楠城は秀吉の勢力に抗し、落城しました。城主は八代にわたり約210年の歴史を持ち、多くの忠義と武勇の士が壮烈に戦ったと伝えられています。
城跡にはかつて一本の松が残されていましたが、明治40(1907)年に伐採され、代わりに樟が植えられました。現在は遺構は残っておらず、石碑と説明板が建つのみとなっています。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R7.3.14
住所: 三重県四日市市楠町本郷1051
関連リンク
タグ
地図
関連情報