酒波寺(高島市〔旧今津町〕)
エドヒガンの行基桜で知られる酒波寺
2025年04月22日

酒波寺(さなみじ)は、山号は青蓮山、院号は平等院、真言宗智山派の寺院です。
「興福寺官務牒疏」によると、天平13(741)年聖武天皇の御願により行基が建立したと伝えられています。
平安時代には天台寺院となり、のちには天台宗・真言宗の兼学道場として発展したといわれます。
弘治2(1556)年に、浅井長政が堂塔の荒廃を嘆いて修復しました。
中世には織田信長と敵対する延暦寺勢力の統制下にあり、また浅井氏の庇護を受けていたことから、元亀3(1572)年、信長とその甥・織田信澄の連合軍によって焼き討ちされ、寺領は押収されたといわれます。
寛文2(1662)年に覚仁が本寺を再興し、延宝7年(1679)以降真言宗に改めました。
本堂は再建されましたが、寺坊の多くは再興されないまま、現在は山号を「青蓮山」と号する真言宗智山派の寺院として、その法灯を守り伝えています。
現酒波寺には、焼失前の寺坊名や本尊名、景観などが描かれた「青蓮山絵図院内」が伝えられ、絵図に記された情報と現地に残る遺構を対比することができます。そのため、高島市の山寺の系譜を考えるうえで、貴重なモデルケースといえる寺院です。
現在の本堂から東の山麓から山腹にかけて、焼失前の寺坊跡とみられるテラス状の平坦地が多く残されています。特に東山腹側には、絵図に記載される「祖師堂」から延びる直線道路と、その両脇に「氐名坊」や「元援坊」や「三ツ星寺」と総称される「牛女院」「北斗坊」「明星坊」など、かつての寺坊の遺構が良好な状態で残っています。
方形を基調とした平坦面が段々畑のように並び、高低差が少なくなる山麓部では、土塁などを築いて寺坊が区画されていたようです。また、この平坦面群の東端には、塚状の高まりで残る中世墓がみられ、周囲には石仏や五輪塔の一部などが多く散在していることから、往時は墓域であったと考えられています。
参道沿いには、エドヒガン桜「行基桜」があります。桜の幹の祠から炭が出てきたので、寺院が焼かれた時に焦げ、又、再生したものと思われます。当時、既に大木であったと思われることから、5~600年は経っていると存じます。
幹径約4m、樹高21.5m、樹幅2.2mですが、平成15(2003)年の大雪で、北側の大枝二本が裂け、半分の姿になりました。蕾は赤く、花径は2cmと小さく、散る前は純白になります。なお、この地域には、138本のエドヒガン桜があります。
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R7.4.12
住所: 滋賀県高島市今津町酒波727
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