太融寺(大阪市北区)
源融が建立し、境内には淀殿の墓がある太融寺
2025年04月29日
太融寺は、山号は佳木山、本尊は千手観音、新西国三十三箇所第2番札所、高野山真言宗の準別格本山の寺院です。
承和10(843)年に嵯峨天皇皇子の左大臣・源融が境内地を拡大、七堂伽藍を建立しました。その際、山号を佳木山とし、源融の諱から寺名を太融寺と改めたうえ、鎮守社として神野太神宮(現・綱敷天神社)も創建されました。
慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で全焼しましたが、江戸時代前期の元禄年間(1688〜1704年)に再興されました。
第二次世界大戦末期の昭和20(1945)年6月、空襲で再び焼失してしまいますが、戦後、復興されて現在の姿となりました。
本尊の千手観世音菩薩は幾多の火災を逃れ、今も安置されています。
太融寺の本尊としてまつられる木造千手観音菩薩立像は、平安時代の作品であり、市内に残る古仏のひとつです。頭上に仏面一面と化仏九面を配置し、全部で四十二本の手をあらわす形式の千手観音像です。太陽や月、武器や道具など、さまざまな持物(じもつ)を手にとっています。
頭上の面や手の部分などは江戸時代に修復されていますが、全体として、つくられた当時の様子がよく残っています。像の本体は、頭部と体部を一本の木材から彫り出す、一木造の技法を用いてつくられています。木の乾燥による割れを防ぐため、像の内側に空洞をつくる内刳りや割剥ぎの技法は用いられず、古い様式をとどめています。一方で、衣の模様の浅い上品な彫り方や、体の奥行きが浅いことなど、平安時代後期の定朝様と呼ばれる様式の影響がうかがえます。
また、境内には大坂夏の陣で自刃した淀殿の墓があります。元々とは、東成郡鴫野村弁天島(現・大阪ビジネスパークの西側)に鎮座していた淀姫神社に安置されていたものですが、明治10(1877)年に弁天島全域が軍用地に指定されたことに伴い移転されました。なお、淀姫神社は生國魂神社に移転し、鴫野神社として境内社になっています。
(現地説明板などより)
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住所: 大阪府大阪市北区太融寺町3−7
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