櫟谷七野神社〔賀茂斎院跡〕(京都市上京区)
賀茂神社に奉仕する斎王の常の御所だった賀茂斎院跡にある櫟谷七野神社
2026年02月23日

櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)は、高沙大神. 春日大神. 武甕槌命 他19柱をご祭神とする神社です。
文徳天皇の皇后藤原明子がご懐妊の際、子宝祈願のため、奈良の春日大社から御霊を遷し奉ったのが神社の起源といわれます。
櫟谷七野神社の名の由来は、内野・北野・平野・柏野・紫野・上野・蓮台野の七野の惣社との説もあります。
この神社に、離れてしまった天皇の愛を復活させてほしいと祈ったのは、59代宇多天皇の皇后です。
宇多天皇の愛を取り戻そうとした皇后が夢のお告げで、社殿の前に白い砂を山の形に積んだところ、天皇の愛が戻ったという故事が櫟谷七野神社には残っています。
このいわれから、社前に白砂を積むと浮気封じの願いが届き、失われた愛の復活が叶うといわれ社前に積む砂も高砂山と呼ばれるようになりました。
応仁・文明の乱で荒廃しましたが、大内義興により永正9(1582)年、再興されました。その後織田信長が化野ヶ原に再建したが、豊臣秀吉が今の地に戻しました。
また、この地は平安時代には賀茂斎院は、賀茂神社に奉仕する斎王の常の御所でした。
それは平安宮の北方の紫野、すなわち大宮末路の西、安居院大路の北(現在の上京区大宮通の西、廬山寺通の北)に位置し、約150m四方の地を占めていました。
斎王は、嵯峨天皇の皇女・有智子内親王を初代とし、以後、歴代の皇女(内親王に適任者を欠く場合には女王)が補されましたが、伊勢の斎宮とは異なり、天皇の崩御または譲位があっても、必ずしも退下するとは限りませんでした。
斎院は内院と外院から構成されていました。内院には神殿や斎王の起居する寝殿などがあり、外院には斎院司、客殿、炊殿などが置かれていました。
毎年四月、中の酉の日に催される賀茂の祭(葵祭)には、斎王は斎院を出御し、勅使の行列と一条大宮で合流しました。そして一条大路を東へ進み、両賀茂社に参拝しました。斎王のみは上賀茂の神館に宿泊され、翌日は再び行列をなして斎院に還御されました。この還御は「祭の帰えさ」と呼ばれ、これもまた見物の対象となっていました。
代々の斎王はここで清浄な生活を送り、第35代礼子(いやこ)内親王(後鳥羽天皇皇女)に至りました。この内親王は建暦2(1212)年に病のため退下されましたが、その後は財政的な理由により斎院は廃絶しました。
歴代の斎王に侍る女房には才媛が少なからず、斎院は歌壇としても知られていました。斎院の停廃後、その敷地は廬山寺に施入されましたが、応仁・文明の乱(1467~1477)年の後、都の荒廃とともに歴史の中に埋もれていきました。
令和6(2024)年のNHK大河ドラマ「光る君へ」の第39回「とだえぬ絆」の光る君紀行で紹介されました。
Photo Canon EOS R6 MarkⅢ
R8.2.14
住所: 京都府京都市上京区大宮通盧山寺上る西入 社横町277番地
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