小牧山城(小牧市)
織田信長の城・小牧長久手の戦いの舞台
2006年05月31日

小牧山は、小牧市のほぼ中央、市街地の西側にあって、濃尾平野に孤立する小さな山です。
永禄6(1563)織田信長が美濃(岐阜)に進出するため、地の理を得たこの山に目をつけ、清須(洲)城から移ると共に山全体を要塞にするため、山頂から麓まで五段の塁濠をつくり、山頂に屋敷、南側に大手道、北側に搦手道をつくりました。中腹には馬場をつくったり、井戸を掘ったり、また要所に重臣の邸宅を置きました。当時は、北側は池沼で自然の要害であったため工事は省かれましたが、南側は原野であったため大工事であって、あちこちに堀をつくりましたが、それらは今なお山中にみられます。
小牧山の南面には山の麓から主郭に向かって一直線の大手道が配されています。 後の安土城にも見られる構造が特徴的です。安土城が初見とされる大規模な大手道は、この小牧山城が最初であったと推測されています。
その後信長は美濃に攻め入って岐阜稲葉山城に移り住んだので、この山は自然廃城となりました。
そして小牧・長久手の戦で再び歴史の舞台に登場してきます。
天正10(1582)年の本能寺の変の後、信長の後継者問題で二男信雄と秀吉が対立、秀吉は信雄を懐柔しようとしますが、これに応じずかえって反逆したため北伊勢の居城を攻撃します。信雄は驚き家康に援助を求めたところ、信長に恩のある家康はこれを引き受け、自ら大軍を率いて清須(洲)城に入り、地の利第一の小牧山に軍を進めました。一方秀吉は大坂(阪)城を出て犬山城に入り、市内の岩崎山を中心にこの付近各地に巾広く砦を築いて、小牧山の家康・信雄軍と対峙しました。この時の両軍の兵力は十万余と言われます。しかし、戦いは小ぜり合いを繰り返し、長く膠着状態が続きました。秀吉は、部下池田信輝の再三の進言によって、家康の居城である岡崎城を攻撃すれば一挙に解決するものと考え、軍の一部を密かに移動させますが家康軍に気付かれ 家康自ら秀吉軍を急進撃します。これが長久手を舞台に繰り広げられた長久手の戦いで、家康軍の完勝となりました。
江戸時代以降、尾張徳川家の保護などにより、小牧・長久手の合戦当時の城の遺構がよく残り、城郭史上の貴重な資料となっています。現在でも、山中に堀や土塁、曲輪などの跡を見ることができます。
明治5(1872)年(1872年)、江崎祐八に払い下げられるが翌年には県が買い戻し、県立の「小牧公園」として一般公開されました。
明治22(1889)年に再び尾張徳川家の所有となり、尾張徳川家は小牧山を保護するため、小牧山南麓に番人を置き、一定の制限を設けて公開し、登山料を徴収しました。
小牧山は昭和2(1927)年国の史跡に指定されたのを機一般に公開、昭和5(1930)年尾張徳川家から小牧町(当時)へ寄付されました。この山は古くから桜の名所として親しまれ、今日では四月上旬に「小牧山さくらまつり」が催され、たくさんの見物客でにぎわいます。
小牧市歴史館は昭和43(1968)年 平松茂翁が私財を投じて建設し小牧市に寄付されたもので、鉄筋コンクリート三層四階建て、高さ一九・三メートル、秀吉が京都聚楽第に建てた飛雲閣(現西本願寺内)をモデルにして名古屋工業大学城戸久教授の設計によって建てられました。 館内は市指定文化財の銅鐸、銅鏡をはじめ考古・民族・歴史資料や小牧・長久手合戦のパノラマなどが展示されて小牧市の歴史をすることができます。
小牧山東麓には昭和22(1947)年に小牧中学校が建設されましたが、平成10(1998)年に移転して、その跡地は、発掘調査の成果に基づいて、主として小牧・長久手の合戦当時の姿に復元整備しましたが、部分的に織田信長の時代の屋敷跡を囲んでいた堀や井戸なども復元しています。
平成29(2017)年、続日本100名城(149番)に選定されています。
入場料 大人100円、小人(小学生・中学生)30円
開館時間 9時~16時30分(入館は16時15分まで)
休館日 毎週木曜日・年末年始(但し、祭日の場合は翌日)
駐車場 小牧市役所の駐車場を利用
H18.5.26
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
H30.8.25(写真差し替え)
住所: 愛知県小牧市堀の内1丁目1
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