菰野陣屋〔菰野藩邸〕(菰野町)
現在は菰野小学校の敷地・菰野陣屋
2006年06月10日
慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦後、土方雄氏は家康より1万2千石を与えられ、滝川一益の代官所跡を修補し仮陣屋を設けました。それ以後12代雄永に至る270年間土方氏の居城として使われました。
土方雄久はもともと織田信雄の家老で、関ヶ原前には「家康暗殺疑惑」をかけられて、他家お預けの身になりました。
雄氏の頃の藩邸はきわめて簡素でしたが、2代雄高は城の中心部に館を建て、藩邸の整備を行い、領内の藩士を周囲に集め住まわしました。また四日市街道沿いには東町、庄部、川原町などの街区を整え、城下町づくりを行いました。3代雄豊は、万治3(1660)年陣屋の全面改修を行い、侍町を含めた地域を城内として、その周囲に柵を巡らし城の東・北・南に木戸を設けました。
その後、藩邸は二度焼失したが新築され、館の周囲に土塀を巡らし、南側に表門、東側に江戸先門が築かれました。西側は孟宗竹の藪を隔てて蔵屋敷が続き、御屋敷の西南と西北側に土塁が築かれ、樹木が植えられていました。
陣屋は大手門、玄関、対面所、御用部屋、書院、奥居間、納戸、台所などに間取りされ、その周りを馬小屋、兵糧庫、武器庫、仲間部屋が取り囲んでいました。城内の主要道路は幅4間(約7.3m)あり、非常の場合は兵馬を集める用意がなされていました。
明治元(1868)年12代雄永の妻益子姫を迎えるにあたり、領民の全面的な協力を得て急きょ城濠と角櫓の工事が行われました。東西92間(約167m)、南北73間(約133m)、幅4間(約7.3m)の濠が掘られ、濠と振子川が合流する南西角に二層の角櫓が築かれました。
明治2(1869)年、雄永の版籍奉還後、菰野藩庁となり明治4(1871)年廃藩置県により菰野県庁となりましたが、同年11月菰野県も廃され廃城となり、明治6(1873)年藩邸は取り壊されました。その後、この地に菰野小学校(現菰野小学校)が移り、現在に至っています。
(現地説明板などより)
Photo KonicaMinolta Dimage A2
H18.6.9
住所: 三重郡菰野町菰野1490番地
関連リンク
タグ
地図
関連情報