金鑵城(小野市)
金鑵城遺跡広場として中世の山城を復元した金鑵城〔夢の森公園〕
2006年06月20日

金鑵城は、青野ヶ原台地上の遠望がきく、要害の地を選んで築かれた山城です。
金鑵城の由来は、井戸からかねのつるべに鎖をつけて、水を汲み上げていたことから、この城名になったそうです。
ここからは、河合城、堀井城、小堀城など室町時代から戦国時代にかけて市内に築かれた中世城郭を見渡すことができます。城主は、播磨を治めていた赤松氏の有力な家臣中村氏とされ、後に三木城の別所氏の持城となっています。
台地先端部に「主郭」と「西の郭」があり、その間には幅約20m、深さ9mの堀切が掘られ、木橋が唯一の通路となっていました。主郭は、東西50m、南北80mの規模で、周囲には、土塁と呼ばれる土の壁がめぐらされていました。北西部に土塁が途切れるところがあり、城内への入口、虎口と考えられています。そこから城内に入ると礎石建物(建物跡1~3)、倉庫施設、煮炊き施設、集石遺構などがありました。また、北東隅部からのびる先端部には、見張りのための櫓が設けられていました。
城内からは、甕、壷、擂鉢などの陶器、茶碗などの磁器、茶臼などの石製品、土錘などの魚労具、刀、鞘、笄などの武具類、瓦、釘、壁などの建築資材、硯、水滴など文具類や銅銭など多様な遺物が出土し、当城が長期間にわたり武士達の生活と防御の場となっていたことがわかります。
城が築かれる以前には、弥生時代の集落が営まれていました。当集落の所在する青野ヶ原台地は、標高約94mで、台地下とは60mの比高差があります。このような高い場所に営まれた集落は、高地性集落とよばれています。この集落は、弥生時代の中期から後期(1~3世紀ころ)にかけて、日常生活の不便な高い所をわざわざ選んで設けられたもので、瀬戸内地域や大阪湾沿岸に広く分布しています。見張り、軍事的施設、争乱による逃げ場所、烽火台などの役割が想定されています。
当遺跡は、加古川沿いの内陸部に営まれた珍しい例で、目の前に加古川が見渡せることから、古くからの交通路でもあった加古川を通して伝わってくる情報をつかみ、それをメッセージとして段丘下の集落へ伝えていたのでしょう。
6棟の竪穴住居を検出し、1~6号住居としています。1号と6号住居は、円形のものですが、他のものは隅のみが丸い隅丸方形のものです。すべてが同時期のものではありませんが、出土遺物からすれば、弥生時代中期末ごろに中心があるようです。平面復元した1号住居は、直径約5mの規模ですが、北東部に入口とみられ中央部には炉か煮炊き施設とみられる大きな穴が認められました。
(現地説明板などより)
駐車場 夢の森公園の駐車場
H18.6.17
Photo SONY NEX-7
H26.9.28(写真差し替え)
住所: 兵庫県小野市昭和町441-6
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