心眼寺(大阪市天王寺区)
真田幸村、大助父子の冥福を願って建立・心眼寺
2006年06月28日

心眼寺は、山号は真田山、浄土宗の寺院です。
元和8(1622)年に僧白牟が真田信繁(幸村)、大助父子の冥福を願って建立されたお寺です。
かつては「幸村鎧掛けの松の木」もありましたが、昭和20(1945)年の大阪大空襲により堂宇ともども焼失しました。
門扉に真田家の家紋の六文銭がありますが、この近辺は真田信繁が冬の陣で活躍した真田丸があったとされています。
境内には「従五位下 真田左衛門佐豊臣信繁之墓」があります。真田信繁は、武田信玄配下の武将であった、父真田昌幸の次男で、通称は源次郎、号は好白といいます。
関ヶ原の戦いでは父と共に西軍に付くも、戦いに敗れ、紀州九度山に幽閉されます。14年間、蟄居生活を送り、慶長19(1614)年豊臣方に参加しました。
大阪冬の陣では、難攻不落の大阪城唯一の弱点とも豊臣秀吉が危惧した、南惣構の外側に真田出丸を構築、そこで徳川方と壮絶な死闘を繰り広げました。
翌年の夏の陣で、信繁は茶臼山に本陣を置いて徳川本体と戦い、徳川家康に迫るも力尽き、越前兵に安居神社付近で討ち取られたと伝えられています。
真田信繁は、一般に「幸村」として知られる。しかし現存最後とされる慶長20年3月19日付の書簡にも「左衛門佐信繁」と署名があり、生前「幸村」と名乗ったことはなかったと考えられています。
徳川時代中期にあたる18世紀のなかばころには「幸村」の呼称が流布していましたが、本墓碑は、生前の確実な諱である「信繁」を採用した。
豊臣姓は秀吉が創始したもので、弟秀長や甥(のち養子)秀次ら親族のほか、毛利輝元や徳川秀忠(おそらく家康も)など有力大名も称しました。
当寺は徳川時代より信繁の菩提を弔っており、平成26(2014)年10月、信繁の四百回忌に際して、墓碑を建立しました。
また、境内には京都見廻組の桂早之助・渡辺吉太郎の墓があります。
慶応3(1867)年11月15日、京都木屋町の近江屋で坂本龍馬や中岡慎太郎らが殺害されました。
箱館戦争終結後、新政府に捕えられた元見廻組肝煎 今井信郎の供述によると、見廻組与頭 佐々木只三郎を指揮者とする数名が、坂本龍馬らを襲撃しました。
その人員の中に、桂早之助と渡辺吉太郎、高橋安次郎の名があります。
慶応4(1868)年1月3日に始まった鳥羽伏見の戦いに見廻組も参戦し、最前線で戦いました。
桂は下鳥羽で左股に銃創を受け、4日に戦死しています。遺体は戸板に乗せられて同僚らの手で大坂まで運ばれ、本寺に葬られました。
享年28歳。戒名は「徳元院大誉忠愛義貫居士」です。
渡辺は鳥羽から橋本にいたる戦いの中で負傷し、5日に戦死、本寺に葬られました。享年26六歳。
墓碑には吉三郎とあるが、同時代資料から「吉太郎」が正しいです。
高橋も5日に鳥羽淀橋において戦死し、本寺に葬られた。享年27歳でした。
「宝樹院恩誉巍山孝道居士」という戒名を刻んだ墓石が、桂の墓の隣に存在していましたが、現在、墓石は残されてません。
裏面には「慶応四年戊申夭正月五日」と刻まれていたと伝わっています。
(現地説明板などより)
H18.6.24
Photo Canon EOS M3
H28.3.19(写真差し替え)
住所: 大阪市天王寺区餌差町2-22
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