
朝晩の冷え込みも冬並みの日も有り、秋益々深まってまいりました。
皆さん体調崩されていませんか?
長い長いと言われるREOのブログですが、今回は過去最長4~5回に分けないと完読できないかもしれません。写真も多いですが、文章も長い誤字脱字連発。ユンケル、目薬ご用意でお付き合いください。
会津在中で元R35 GT-R乗りも脊柱管狭窄症(REOも患っていますが…)悪化で今はフーガ乗りの楓蒲生(フーガモウ)さんから、会津若松で11/6にオフやるから来ない?と会津好きなREOを知ってのお誘いに即参加表明。実は8月末にも会津観光来てんですがね。因みに楓蒲生のハンネは秀吉の奥羽統一野望の為、会津城主に抜擢された蒲生氏郷から取った名。拘っていますねぇ。
11/6 5:00中央道~長野道~上信越道~北陸道~磐越道経由で、約500km離れた会津を目指し発。
新潟県境で土砂降り。ブログ中R35汚れてますo(_ _)oペコッ♪
又、1日目は曇り、画像眠いです。
待ち合わせは10:30も9:00着。
駐車場確保の為、鶴ヶ城の駐車場へ。駐車場は城内こんな立派な石垣を通ります。
待ち合わせ時間より早かったも楓蒲生さん連絡すると直ぐ行くと…。鶴ヶ城駐車場。

皆さん続々集合も紅葉観光シーズン駐車場はバラバラ。何処行ってもそんな感じで気が付けば集合写真無かった。
今回のオフは、主催の楓蒲生さんの仕事絡みでのご友人中心で楓蒲生さん以外、皆さんみんカラやって無く本名で自己紹介でしたので、名伏せでKさんR35 GT-R MY08、YさんR35 GT-R MY15、GさんZ34、TさんS2000、Rさん86の全6名。会津在住者は楓蒲生さんのみで他は近隣近県もREO以外会津若松観光は、お初な方々という事で、ツーリングより観光オフ。

鶴ヶ城ではボランティアの無料観光ガイドが有るのでお願いしました。ガイドさんは最初に必ず「どちらからお越しですか?」と尋ねてきます。

(白壁に赤褐色の瓦です。冬の寒さで瓦が割れない様に鉄分を入れているためです。)
「信州(長野県)です」と答えると前回もそうでしたが満面の笑みで「信州と会津は親戚ですものね。ようこそお訪ね頂けました」「信州の方は、兄姉の様な存在です」「信州から伝わったので食文化も似ていて、人の優しさも同じですね」と信州人というだけで大歓迎をしてくれます。それは信州高遠藩から栄転国替えで入った会津松平家の初代藩主で名君と誉れ高い「保科正之」公のお蔭なんです。
保科 正之(ほしな まさゆき)について少し、第2代将軍徳川秀忠の四男(側室の子、家康の孫)として生まれる。秀忠没後三代将軍家光は、当初異母兄弟とは知らなかったがその事実を知るとことのほか可愛がりました。慶安4年(1651年)、家光は死に臨んで枕頭に正之を呼び寄せ、「正之、宗家を頼みおく」と言い残しました。これに感銘した正之は寛文8年(1668年)に『会津家訓十五箇条』を定めました。第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守りました。
激動幕末の藩主・松平容保はこの遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として最後まで薩長軍と戦ったと言われています。
正之は家光より松平姓を名乗ることを勧められましたが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず、生涯保科姓を通しました。第3代・正容になって松平姓と葵の紋が使用するようになりました。
茶室「麟閣」
正之の会津藩主としての実績は、●殉死の禁止 ●税制改革と減税実施 ●社倉制度を創設(飢餓対策)●間引きの禁止(子殺し) ●救急医療制度の創設 ●会津藩家訓の制定 ●90歳以上の高齢者へ扶持米の支給(領民90歳以上の高齢者には身分を問わず一人扶持(玄米一日5合、1年間で1石8斗2升5合)現在の50万円ほどの価値を支給、世界初の年金制度)などで、領民を慈しみ、親や子供を大切にして暮らせる世の育成を目指したその姿は、名君の誉れ高く、会津松平家の藩祖と崇められているのです。
茶室内から紅葉
楓蒲生さんのお話では、会津の方々は義を重んじ会津へ貢献された偉人の方々を尊敬の念を込め学校の授業で教えておりその中の一人が正之でありその正之が、信州高遠から最上山形城主を経、多くの家臣を連れ会津藩主となり信州の文化、衣食住、技術、考え方などを持ち込んだからこそ今の会津が有る。
信州は親戚、信州人は兄、姉の様な存在と教えられ信州への敬いの心をお持ち頂けるようです。信州人としてはとても嬉しいお話です。
あいづっこ宣言。子供達は日々この宣言を連呼しています。素晴らしい道徳教育ですね。会津は青少年の犯罪が全国平均を大きく下回るとの意味が分かる気がします。
お昼は会津名物「ソースかつ丼」かぁ?
写真は8月に食べた飯盛山近くのとん亭さん。

信州と会津は、埼玉、群馬、栃木等に隔てられ県続きではございません。ご承知かと思いますが、南信州(駒ケ根を中心として)も「ソースかつ丼」が、名物なのです。保坂正之公の時代には「ソースかつ丼」などございませんから近年伝わったのでしょうが不思議ですね。個人レベルの繋がりでもあるのでしょうか。因みに全国的に見ても「ソースかつ丼」が有るのは、南信州、会津、福井、早稲田(東京)の4か所と言われています。
これだけ「ソースかつ丼」で引っ張っておきながらお昼は会津名物「わっぱめし」会津若松郷土料理で超人気店「田事」さんの「会津おもてなし膳」わっぱめしメイン。
「田事」さんはこんなレトロな建物が多く点在する七日町にございます。
玄関前には綺麗に打ち水がされ、客を向かい入れる気持ちが伝わりテンション上がります。

趣きのある佇まい。室内は柱の一本一本まで艶があって、会津の伝統工芸品が隅にさりげなく飾られている。清潔感のある広い和の空間で大きな囲炉裏を囲んでいただく郷土料理。
にしん山椒漬、棒たら煮、味噌田楽が順に出され、
こづゆとめっぱめし。どれも素材を生かした優しい薄味で美味しい。良いお店へ連れて来てもらいました。
飯盛山は会津若松市の中心部から東側にある標高314mの山で、白虎隊自刃の地としてあまりにも有名。元は、明治初期、神仏分離令により廃寺となった正宗寺の建物多く有り山全体が信仰の対象であったのでしょう。白虎隊も飯盛山と目指したと伝えられていますが、正宗寺を目指していたのかもしれませんね。

この200段の石段を上るか右手の有料エスカレーターで
お土産街には伝統の銘品「絵ろうそく」の制作過程を見学できるお店も

一人前の絵付師には9年もかかるとか
さざえ堂も飯盛山にあります。
正式名称は「円通三匝堂」(えんつうさんそうどう)といい、旧正宗寺の仏堂として、江戸時代後期の寛政8年(1796年)に当時の住職であった郁堂(いくどう)が建立したものと言われています。当時は阿弥陀如来を本尊とし、西国三十三所の三十三観音像が安置されていました。つまりこのお堂をお参りすることで遠く西国に行く事無く西国三十三所巡礼(お礼参り)が出来たというお堂です。(因みに信州善光寺の三門も西国三十三所巡礼建物です)
外見は六角形の少々特異な建物です。内部には二重螺旋構造のスロープが続き、時計回りに上るスロープと半時計左回りに下りるスロープが別々に存在し、入口から斜路を最上部まで上り、出口まで上り下りがすれ違う事は無いという不思議な一方通行なのです。
神仏分離で堂内にあった三十三観音像は他所へ移され、どう見ても仏教建築なのに観音像の代わりに最上部には「皇朝二十四孝」の額が掲げられ違和感を感じましたね。
横にある神仏分離で残された宇賀神堂とこのさざえ堂は、正宗寺住職の末裔である飯盛さんの個人所有。因みにさざえ堂横のお土産物店「飯盛本店」と飯森山前の幹線道路脇で駐車場を無料開放している「飯盛分店」さんは、飯森さんのご親戚。
こんな素敵な田園風景の先に江戸時代の町並みを今に残す宿場「大内宿」が有ります。
「下野街道と呼ばれた会津と日光を結ぶ街道の両脇には、茅葺き屋根の民家が並び、江戸へ向かう大名や旅人の宿駅として重要な役割を果たしていました。
平成元年に電柱・電話柱・テレビ共同受信柱・地区有線放送柱を新設道路側に移設した「裏配線」で、大内宿内を無電柱化。
街道のアスファルト舗装を撤去までして土の道として当時を彷彿させます。30軒以上の茅葺き屋根の民家が並び電柱も無く土の道。自然と心がほっくりする宿場です。
柿すだれ、これも信州と同じですね。
しんごろう、半付(飯田では半ごろしといいます)したうるち米にエゴマ味噌を塗り焼きます。五平餅の親戚です。
斎藤一のお墓のある阿弥陀寺。(8月訪問時画像)

斎藤一は幕末期に新選組で副長助勤、三番隊組長、撃剣師範を務めたのはあまりに有名で女子にも人気でこの寺を訪れる女性の斎藤一ファンも多い。戊辰戦争では幕府軍側として最後まで鶴ヶ城で戦い、会津藩が降伏した後に投降、妻の姓をとり藤田五郎と改名し、1874年、明治政府の警視庁に採用され、1877年の西南戦争では警部補の役職で奮戦し直接では無いものの戊辰戦争の宿敵西郷隆盛を城山で自刀に追い込んだんですね。

西軍(会津では決して官軍と言いません。このほんの少し前までは会津は薩摩と共に長州征伐の官軍だったのですから)の砲撃を受け無残な姿となった若松城。
賊軍の汚名を受け、戦う意思が無い事を示しても攻められ日本中が敵の様な酷い戦争が会津戦争(戊辰戦争)で、会津中が焼き尽くされ降伏したものの恩典も無く、極寒の無毛の地、下北半島へ流罪されるという仕打ちを受けました。それにも拘らず、会津の方々は西郷、板垣が憎い。薩長は許せん、あの会津戦争は誰が悪かったなどとは決して口に出されません。日本国内で日本人同士が殺し合い女子供まで多くの人が亡くなった会津戦争が有ったという事だけは忘れないで居て欲しいと仰るだけなのです。ふと「ならぬことは、ならぬものです」の言葉が浮かびました。会津戦争は酷い戦争でしたが今更誰かを責めても何も変わらないのですよ。そんなお気持ちなのでしょうか。
泊りは東山温泉。山形県の上山温泉、湯野浜温泉とともにかつて奥羽三楽郷と呼ばれた由緒ある温泉街。今でも芸子さんが活躍しているとは帰宅して知った事実。こんな歴史ある温泉宿さんもあるらしいです。
東山温泉及び食べ物画像5点はweb引用画像です
お宿は会津盆地扇状地扇央に有る、東山温泉一番人気の「御宿 東鳳」さん。
朝一時帰宅してから出社すれば間に合うと楓蒲生さん、Rさん、Gさんはお泊りに御付き合いいただいて4人で、しっぽり大人night。
ディナーブッフェですが、郷土色豊かでとても美味しいんですが、馬刺しといいホント食文化が信州と似ているんです。
鯉の旨煮なんてのは信州の冠婚葬祭の定番。

会津名物でやはり冠婚葬祭メニューとの事ですが、会津では鯉の養殖はしていないとの事、
天婦羅まんじゅうは信州では「天婦羅まんじゅう」会津では「まんじゅうの天婦羅」どちらも彼岸やお盆のお供え物ですが、信州は天婦羅にしてから備えるのに対して会津は供えて下ろして少し硬くなったのを柔らかくし食べるために天婦羅にする。

「天婦羅まんじゅう」は信州と会津の真ん中にある群馬には存在せず、高崎の従妹が小学生時代「田舎のおじいちゃんの所で「天婦羅まんじゅう」を頂いたらとても美味しかった」と絵日記に書いたら担任の先生が「そんなものが世の中に有る訳がない。有るなら持って来なさい」と言った代物。
翌朝はお仕事へ向かわれるお三方に合わせ、ホテル宿泊では有り得ない7時からの朝食ブッフェどれも美味しかったです。楓蒲生さん、Rさん、Gさんお付き合いありがとうございました。
1日目でブログ3編分書いちゃったので2日目は巻き入れて手短に。ホテルを9時に出目指すは磐梯山ゴールドライン~吾妻小富士
磐梯山ゴールドライン
裏磐梯五色沼。先ずは柳沼。
赤沼から流れ出た小川の石には鉄分が付着して赤褐色に
青沼。
同じく青沼。(8月時画像)葉が風に揺られ湖面に接することで、水分の中の硫酸硫黄により湖面と同じ薄いブルーホワイトの色に葉先が染まっています。
磐梯吾妻レイクライン。三湖パラダイス展望台駐車場。
中津川渓谷駐車場。
秋元湖。
磐梯吾妻スカイライン展望駐車場。
浄土平駐車場。

吾妻小富士がシンボルになっている磐梯朝日国立公園(福島県側)の吾妻山・浄土平は、今なお噴気を上げる一切経山(いっさいきょうざん)を間近に望み、荒涼とした火山風景が見所のひとつとなっています。ここで自宅までのナビセットしたら650km 8時間弱。ホテル出るから風景に圧倒、感動しっ放しで3時間半時間忘れて辿り着いたのが山形県境の浄土平。家までたどり着けるんか?
浄土平。

ここは火山ガスが溜まっているとの事で、駐停車禁止。窓開放禁との物々しい立て看板。バイクはどうなん?
霜降。
空の上を飛んでいるかの様。高所恐怖症のREOは怖くてビビリビビリ。
福島市まで降りて来てっと、月曜日でSNS友の皆さんお仕事。ご挨拶も出来ないかと思ってみたが、高速乗る福島西インター7~8分の所が、じゃっくさんのご自宅と聞いていたのでダメ元でケータイコール。すると翌日から出張の為、amのみの仕事で在宅との返事。インター近くのコンビニで久しぶり~のご挨拶に5分だけ立ち話して後ろ髪を引かれる思いで、福島を後に…。
東北道~北関東道路~関越道~上信越道~長野道~中央道ルート。
途中H氏お住まいのグンマーも通るしnismo拝見したい気もするが、もう一泊しちゃいそうなので、ここはじっと我慢して、グンマー履歴を残すため夕食に横川SAで釜飯買って急ぎ帰路へ。
長野道姨捨の峠に差し掛かった時、走行車線トラックの後ろに付いてしまったブラックのエクストレイルが、追い越し車線に出たそうな不穏な動きを察知。

「追い越し車線後ろから早い車が来るよ~出ないでねぇ~」と念を送るも気付かず⇒ウインカーを出した。ダメって言ったじゃんと軽くパッシングしたら気付いて走行車線に戻った。追い越し車線に出る時は早い車に注意してねと追い越し際に思ったらふとブラックのエクストレイルに知り合い居たじゃんと頭を過った。まぁ彼は松本安曇野在住だし平日夕方に長野には来てないわなぁと思った数分後塩尻通過中にケータイ鳴った。出ると安曇野のA氏が「アルティメイトシルバーの35が品のイイ走りしてたけどさっき長野道居た?」(大爆笑)「ワシじゃ!!!」
ホントREOは会津~福島大好きなんです。会津、福島、郡山何度か来ていますが、一度も嫌な思いをしたことが無いんです。車の往来も整然とさえ感じる荒い運転をしているのは他県ナンバーとREO。前に出ず相手を敬い立てる。表現できないのですが、日本人が忘れた物を会津の方々はしっかりお持ちになっている気がします。会津の方々の温かい気持ちに触れ、心が洗われた気持ちになりました。大好きです。会津又、心が汚れかけたら洗濯に伺わさせてくださいね。
2日間触れ合った皆さん。会津の皆さんありがとうございました。
長編お付き合いありがとうございました。
