
2019年11月30日

11 30=イイ サンマルと語呂が良いこの日、S30の車体設計に携われた植村さん、日産車体電装補機設計課でS30の電装設計を担当され、前述の植村さんとアメリカで数々の走行テストをされた大沢さん、
左↓植村さん 右↓大沢さん
そして、

米国日産初代社長↑片山さんの片腕となり、後に

副社長を務められた↑宇佐美さん(ご夫婦)と我々クラブS30のメンバーで軽井沢を走りました。
現在、宇佐美さんご夫婦は軽井沢にお住まいで、同じく長野県在住でクラブ創成期のメンバーのAさんが、我々の宿とZ50周年を祝う宴会場をアレンジくださりました。
※この時の様子については後述致します。
今からちょうど50年前、1969年(昭和44年)11月にフェアレディZ(S30)は発売され、

そして翌年アメリカでDATSUN240Z(ダッツン ツーフォーティー ズィー)が発表されました。

S30は、もともとアメリカ日産(初代米国日産社長片山 豊さん)からの強いリクエストで開発され、日本で先行発売したのが1969年でした。
もう半世紀前のお話(@_@)

わたしは少年時代からこのS30に憧れを抱いており、最初に乗ったZは二代目Zの130型でしたが、その後S30を3台乗り継ぎ、現在の所有車は13年前まで静岡の獣医さんの納屋に仕舞い込んで不動のままだった後期型(1975年製)です。

1975年車(昭和50年)は排ガス規制により出力ダウンを余儀なくされたNAPSの年でしたが、私のZはSUツィンキャブ最終モデルでした。
調子よく走ってくれるエンジンでしたが…

5年前にクラブの技術顧問であるSS-KUBOの久保親子に信号の多い混んだ都会でも乗りやすいエンジンをリクエストし、作っていただきました。

L26 & SOLEX 44 NISMOキャブ仕様
マフラーは、
432デュアルのスチール管で、出口だけステンレス

わたしスチール管の音が好きでして😘
で、現在に至ります〜

外見は鉄チンホイールにDATSUN純正ホイールキャップを装着。

ライトカバーとフロントグリルは輸出用(240Z用)横ルーバータイプで鰹節オーバーライダーが付く仕様です。

このスタイルには拘りがあって、このクルマをデザインしたのは松尾さん(同じくクラブS30の名誉会員)のデザインチームでしたが、
最終基本形となったA案はライトカバー+フロントグリルに横ルーバータイプ+鰹節オーバーライダーになっていてます↓

これをS30の基本デザインと位置付けた…と松尾さん本人から聞きましたので、私はその路線で生きます。

アメリカでの法規制ではライトカバーが許されなかったため240Zはカバー無しのシガースコップ形となっていますね。
ウンチクはこの辺にして。
11月30日(土曜)AM5:00

この日の東京は今年最低気温の朝でした(4℃)。
それでもエンジンは一発で火が入りました。

埼玉県幸手市のKさん(クラブメンバー)をピックアップし、東北道~北関東道~上信越道~関越道のルートで佐久まで向かいました。

途中クラブのメンバー(6台)と合流し、先ずは元米国日産副社長の宇佐美さんのご自宅・軽井沢に向かいました。
途中、道に迷い林の中でアタフタしたシーンもありましたが💦笑…
宇佐美邸到着…

軽井沢のご自宅でお茶をご馳走になり、記念撮影をしました。
宇佐美さんの奥様もアメリカ時代、240zの販売を支えたかたですので、ご自宅に並んだZを見て感動されていたのがすごく印象的でした。

↑植村さん

↑大沢さん
お昼前、東京から佐久平駅まで列車で来られる開発者の植村さん・大沢さんをお迎えし、

一行は佐久市のENDLESSさん(株式会社エンドレスプロジェクト)の本社まで移動しました。

ENDLESSさんは1987年に設立された自動車部品製造開発の会社で、はじめF3000マシンでブレーキパッドのテストを開始し、株式会社エンドレスプロジェクトを設立。設立直後にして、自社のブレーキパッドがレーシングカーの70%のシェアを獲得され、現在も高い評価を得ておられます。

社長さんはじめ従業員のみなさんが快く我々を歓迎してくださり、お昼ごはんにまでお付き合いいただきました。

昼食は小諸市にある信州蕎麦で有名な「草笛」さん。

揚げたての天ぷらと美味しい蕎麦…

食後の「くるみおはぎ」が絶品でした!
食後はENDLESSさんの工場・開発室・ショールーム・レーシングカーガレージを見学し、モータースポーツを勉強させていただきました。

ローター、パッドの性能試験現場を特別に見学…

ローターが摩擦熱で真っ赤に❗️

↑ショールーム、↓ガレージ

わたしはGT3のENDLESSニッサンGTRのコクピットに乗り込みました。いい経験をさせてもらいました。
一方、

S30車体開発者の植村さんはZ33型のレースマシンに乗り込み隅々を観察されていました(^^)

ENDLESSさんをあとにして我々は宴会&宿泊先でもある「おいまつえん」さんに移動しました。
実は、私がクラブS30に入会したばかりの頃(もう20年も前)、一度ここに宿泊していたのを思い出し、宿主に私のこと「覚えてますか~?」的に声をかけましたら当時の様子や会話した内容まで覚えてくれており大感激!
嬉しくて昨夜は、その時に同伴した友達に電話してしまったほどです!
考えてみたら、ずーーーっとZに乗ってきたお陰で色んな方々と知り合い、楽しい思い出を作らせてもらっているんだな~と感慨深いです。

宴会の冒頭、S30車体開発者の植村さんから…

「一般社団法人 日本旧車協会」設立についてお話がありました。植村さんはこの協会の理事。
この協会は今年5月7日に横浜で設立され、トノックスの殿内荘太郎さんが代表理事となっています(トノックスとは自動車車体の車体架装メーカーで、日産の協力工場でもあります。実は日産シルビア初代CSP311型を製造した会社なんですよ(旧社名は殿内製作所))。

この協会にはスカイラインR31~R32開発主幹で有名な伊藤修令さんも理事をつとめられています。
日本旧車協会は、旧車の魅力を通じ、貴重な文化財として子々孫々に伝えて行くのを使命と考え、ただ見るだけでなく自動車と言う特性を味わえるように動態保存して、 時には乗って楽しめるような環境を作ることが趣旨だそうです。
具体的にこれから何をして行くかは理事、監事、事務局の皆様で考えていかれるそうです。
※長々とすみません、私の旧車友達にお伝えします
12月1日(日曜)朝

よく晴れた朝です。

わたしはこの部屋に泊まりました。
とても素敵な部屋で熟睡できました(^^)

ここは長野県佐久市。晴れでも12月の朝はマイナス気温になります。朝、メンバーの愛車はカッチカチに凍っていました❄️

こうなる事を予想した私は家から簡易ボディカバーを持参していましたから霜から免れました…

朝食を済ませ、10時過ぎから元米国日産副社長の宇佐美昌孝さんから貴重なご講話を賜りました。

お話しの内容は、初代米国日産社長の片山 豊さんと共に歩んだDATSUNブランドの立ち上げについてでした。
先ず、宇佐美さんはDATSUNの立ち上げで大事にした三つについて述べられました。

①とにかくDATSUNブランドを知っていただく!
②サービスを徹底し、一台でも多く動かす事に力を注ぐ!
③Dealer makes money first then we make moneyディーラー(販売店)が一番大事!
①についてはリアガラスに「You have been passed by DATSUN」のシールを貼って抜き去られた車がアレは「DATSUN」か…と思わせる宣伝活動もしたそうです。
②については、不具合で困っているユーザーが居たら新車の部品を外してでも交換して動かしてあげよう…の真心を忘れず活動されたそうです。
③については、メーカー的上から目線は一切捨て、先ずはディーラーがしっかり儲けてくださいね、その後でメーカーの販売会社は儲けますから…とディラーを一番に考えた事だそうです。
この三つの強い思いを持って片山さん達とアメリカでDATSUNの立ち上げに注力されたそうです。

この時のために自作のフリップを用意されていました。頭が下がります…

宇佐美さんは最初、米国日産のサービス部隊として着任されました。
売れずに港に雨ざらし、埃まみれとなったDATSUN車を洗車する仕事から始まり、時にはマイナス15℃の真冬の朝、エンジン始動に困るユーザー宅へ奥様と一緒に訪問し、対処した事もあったね…と同席の奥様と思い出話をされていました。
こういった努力と信頼作りの積み重ねの中、DATSUN-240Zは登場し、ブランド力は一気に向上し、医者・弁護士・会社経営者など高給取りの人からも欲しい欲しいと言われるブランドに育ったのが嬉しかったな…とお話しされていました。

また、本国日産本社の判断でDATSUNブランドを封印(消滅)した時の片山さんの憤りの様子もお聞き出来、アメリカでの光と影の物語をお聞きでき、本当に光栄でした。

ご講話の後、宇佐美さん夫妻を軽井沢のお宅にお送りし、

その後、植村さんと大澤さんを軽井沢の駅までお送りしました。
我々は高速に乗り、

横川SAで終礼をして解散しました。
S30生誕50周年の今年、開発と販売に携われた方々と一泊二日をお供でき、クラブメンバーも私のS30も喜んでいました(^^)
11月30日
イイサンマル思い出のサイン

これらの本に記念として日付入りサインをいただきました。

大沢さんサイン↑

植村さんサイン↑

宇佐美さんサイン↑
最後に

Love cars , Love people , Love life
宇佐美さんの心に残る片山さんの言葉だそうです。
おわり