※チラシの裏日記注意
この日は午後3時までに仕入れ先にまとまった代金の支払いをする期限だったが、残高が足りなかった。
海外からの入金を待っていたのだが、午後2時を過ぎても銀行から入金のお知らせの電話がこなかった。
いよいよ銀行の閉まる午後3時前が近づいてきたので今日はもう支払いが出来ないと判断し、断腸の思いで仕入れ先に電話かけた。
電話で仕入れ先の担当者に入金が遅れる旨を説明していると、突然今までに体験したことのないような大きな揺れを感じ棚からカラの段ボールがいくつも落ちてきた。
千葉県にある電話先では担当者の声の後ろで大勢の女性社員の悲鳴が聞こえてた。
担当者は「うわぁ ! またこちらから掛けます !! 」
電話を切られてしまった。
慌てて外に出てみると、電信柱が大きく揺れていてこれはかなり大きな地震だということが視覚的にもよくわかった。
しばらくして揺れが収まり、電話をしなくてはならないプレッシャーから解放されたことと好奇心から駅前にマウンテンバイクに乗って街の様子を見に行くことにした。
交通機関が止まっているので駅前のロータリーには人が溢れていた。
たまたま駅の近くで会った顔なじみのバーの従業員は、スマホをいじりながらちょうどその頃から普及し始めたツイッタ―をスマホで見ながら「最近ツイッタ―にはまってるんすよ」なんて言いながら電車が停まって大変なんて内容の友人のツイートを見ていた。
その時の彼と話した内容は、
「なんかこんな非日常な光景はワクワクするな♪」
今でもよく覚えている。
まさかその言葉がその時点では最高に不謹慎な言葉になるとは夢にも思わなかった。
そして、事務所に戻りネットを見て初めて東北で恐ろしいことが起きていることがわかった。
夜になり仕事を終えた奥さんを途中の駅まで迎えに行くことにした。
電車は完全には停まっていないようだったが、大幅に本数を減らしていたそうだ。
橋の上や通りには歩いて帰宅をする人がたくさん歩いていた。
駅近くに着いたのだが、今度は携帯がまったく通じない。
そこで十数年ぶりにコンビニの前にあった公衆電話からかけてみてようやくおくさんの携帯に繋がった。
とりあえずなにか食べて帰ろうということになり、当時乗っていたシトロエンC5をお台場に向けて走らせた。
しかし、臨時閉店でお台場のショッピングモールは全て閉まっていた。
あきらめて帰宅することになったが、普段なら数十分で戻れるお台場から自宅まで渋滞で数時間かかった。
そんな震災当日だった。
その頃は今よりも仕事が大変で資金的な問題や色々な仕事上のトラブルなどでストレスが多く、そのせいか本当に大きな円形脱毛症が出来ていた。
ちなみに震災の少し前に釜石港付近で買い付けをしたのだが会社そのものが津波で流されてしまいしばらく連絡がとれなくなり本当に焦った。
自分にとっては震災当日の記憶とそんな大変だった日々がリンクする。
震災後
TVでは余震のたびに不気味な電子音の警告音で始まる地震速報が頻繁に現れた。
今でもうちの犬はその音がスマホの地震速報アプリから鳴るたびにその時の記憶からか恐怖に戦きながらワンワンと吠えだす。
今度はガソリンが買えなくなった。
長い行列ができ、20リットルしか買えないこパターンが多かった。
幸いなことに、色々な機関が止まっていたのであまり出かける必要が無くなったことや、ガソリンを備蓄している某業者さんの厚意でわけて頂けたことによりあまり困らなかった。
仕事的に本当に大変だったのは福島第一原発から放射能が漏れたことだ。
このニュースが発表されて一緒に働いている各国の人間の反応はそれぞれだった。
ペルー人
「おれが子供の頃はリマの街はテロや誘拐が多くてもっと怖かったから放射能なんて怖くねえよ」
アメリカ人
英語圏の大げさなニュースを見て、「日本政府は情報を隠ぺいしている ! 」とひたすら怒り狂っていた。
オーストラリア人
「しょうがないよ、なにもできない。子供には放射能は心配。」
ニュージーランド人
同棲している彼女を置いて大阪の友人宅に避難。
福島第一原発が爆発してからはぼくの仕事で海外で荷物を送る時には放射能検査が義務付けられ、時々東北から仕入れた物を港で検査すると放射能のレベルが高く船に乗せることが出来なかったことがしばしあった。
たまたま見ていたニュースでうちの商品に測定器を当てられ放射能検査に引っかかってるシーンが流れたこともあった。
震災から約2年位は放射能レベルにびくびくしながら仕入れをしていた。
なお、最近は検査はするが規定のレベルを超えることは全くなくなった。
子供がいる友人らはわざわざ東北地方の食材を避けて買っていると言っていたが、自分は排気ガスがさらされる都会に住んでいるし、喫煙もするし中国産とかの食材を使っている安い食べ物屋でも食べるので放射能にさらされた可能性のある農産物を食べることは全く気にしない。
しかし米を買うときのみ、放射能検査でのトラウマからか大きく県名が記されているのでなんとなく福島から下の方の関東地方の米は自然と避けていたかもしれない。
去年某氏のパーツを取り寄せた件で、お礼に千葉産のお米を頂いた。
本当に美味しくて家族であっという間に食べきった。
その時思った、「これが風評被害か…」
今年はぜひともその美味しいお米を譲って頂きたいと考えている。
震災の年の暮に、震災の爪痕を自分の目で確かめようと「日本政府は情報を隠ぺいしている」と怒り狂っている人間のスタッドレスを穿いたレガシィで東北へ行ってみた。
仙台のインターを降りて、とりあえずYouTubeで津波が押し寄せた光景を観た空港に立ち寄った。
空港に向かう途中の海沿いの道を走ったのだが、真っ暗で街灯も無くその時は広い原っぱなのだろうと思っていた。
展示しているパネルには震災時の惨状が貼られていたが、空港はすっかり綺麗に新しくなっていてまったく津波が押し寄せた形跡が感じられなかった。
その後、仙台駅近くのビジネスホテルに投宿したのだが街並みや商店街の華やかなイルミネーションを見ているとまったくこの近辺で震災があったような雰囲気は感じることが出来なかった。
その夜は旅行の時の浮ついた気分で居酒屋で飲んだり、オールディーズのライブハウスで飲んで踊って楽しい気分だった。
この時点では東北はすっかり復興したのだろうと思っていた。
次の日、前日通った原っぱだと思っていた場所に行くまでは。
前日なにも無い原っぱだと思っていた場所は住宅地だった。
誰も住んでいないし電気も来ていなかったので真っ暗に見えていただけだった。
かろうじて残っている壁が無くなった家屋を覗いてみると、津波が襲う前には家族団らんをしていたであろう居間の掛け時計は3時少し前の時刻を指していた。
打ち上げられた大きな船。
車で街を走ると、海からだいぶ離れた場所なのに時々小さな船がぼろぼろの状態で道端に転がっていた。
かなりの犠牲者が出た女川港。
港で海を眺めると、津波が襲ったことがまるで嘘だったような静かな海だった。
ぼくらは仙台からリアス式海岸を上がって松島までの被災地を見て帰ってきた。
今でも時々あのうず高く積まれたガレキの山や仮設住宅の光景を思い出す。
いつかまた海沿いの東北に出かけどこまで復興したかこの目で確認したい。
毎年この時期になると家族や家を失った方の苦労と悲しみには足元すら及ばないが、自分の中で色々大変だった時期を思い出す。
そんな気分でこんな日記を書いてしまった。
心の底から被災地の復興を願う