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2021年05月04日 イイね!

ドライバーフィギュアの世界 Part 9(真の1982年F1チャンプ ディディエ・ピローニ)

ドライバーフィギュアの世界 Part 9(真の1982年F1チャンプ ディディエ・ピローニ)

お籠りGWを利用して、前回のエレ・ニースに引き続いてネタを仕込みましたので連チャンでアップ致します。
Part 9のテーマは、1982年の不幸な事故が無ければ、アラン・プロストよりも前にフランス人初のF1チャンプに輝いていたであろう悲運のレーシングドライバー、ディディエ・ピローニです。


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ディディエ・ジョゼフ-ルイ・ピローニ(Didier Joseph-Louis Pironi 1952~1987年)は、レーサーだった異母兄の影響で20歳からレース活動を開始しました。
エルフのバックアップを受けてフォーミュラ ルノーに参戦したピローニは、1976年にフォーミュラ ルノー欧州選手権のチャンピオンになりました。
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また同年のルマン24時間レースにもクレーマーレーシングから初参戦し、Porsche 934で総合19位、GTクラス4位の成績を収めました。
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翌1977年はヨーロッパF2選手権に参戦し(シリーズ3位)、またモナコGPの前座として開催されたF3レースで優勝し、F1関係者の注目を集めます。
この活躍とエルフの後押しにより、翌1978年にTyrrellからF1デビューが決定しました。

モナコGPのF3レースで優勝したピローニのMartini Mk.21/Toyota。
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同年のルマンにもRenault A422で参戦しました(結果はDNF)。

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1978年のF1デビューシーズンは、Tyrrell 008で第2戦のブラジルGPで早くも6位入賞を果たし、これを含めて5位2回、6位3回入賞して年間ランキング15位でシーズンを終えます。
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この年もルマンにRenault A442Bで参戦しますが、Didier Pironi/Jean-Pierre Jaussaud組の2号車がルノー悲願のルマン初優勝を果たします。

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翌1979年も引き続きTyrrellからF1に参戦します。
Tyrrell 009の戦闘力不足に苦しみながらも、第6戦ベルギーGPでの初表彰台(3位)を含め、3位2回、4~6位各1回で前年度を上回るランキング7位でシーズンを終えました。
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翌1980年は、リジェからのオファーを受けて移籍しますが、競争力のあるLigier JS11/15を得て第5戦ベルギーGPで初優勝を果たすなど活躍し、8度の入賞(うち初優勝をはじめ表彰台5回)・2PP・2FL、ランキング5位でシーズンを終えるという飛躍の年になりました。

チームメイトのジャック・ラフィーとの2ショット。
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リジェの総帥ギィ・リジェと何やら真剣に話し込むピローニ。
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ピローニが駆るLigier JS11/15。
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この年のルマンはBMWフランスチームからBMW M1で参戦し、総合14位、IMSAクラス3位に入賞しました、
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翌1981年は、前年の活躍が評価されフェラーリに迎えられジル・ヴィルヌーブとコンビを組むことになりますが、フェラーリ初のターボカー126CKの熟成不足に苦しみ、4位1回、5位3回、ランキング13位の不本意な成績に沈みました。

エンツォ・フェラーリと写真に納まる、ヴィルヌーブとピローニ。
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ピローニの駆るFerrari 126CK
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運命の1982年もフェラーリ―でF1シーズンを迎えます。
大幅に戦闘力が向上したニューマシン126C2を駆って、第4戦サンマリノGPでフェラーリ移籍後初優勝を遂げますが、後続を大きく引き離してヴィルヌーブとピローニが1・2体制になった時にピットから出た“SLOW”のサインを見て、チームオーダーが出たと思ったヴィルヌーブをピローニが最終ラップでパスして優勝したことでヴィルヌーブが大激怒。チーム内に険悪なムードが漂います。

続く第5戦ベルギーGPで、予選2日目終了直前にピローニが自分のタイムを上回ったことを知ったヴィルヌーブは急遽タイムアタックに再出撃しますが、スロー走行中のヨッヘン・マス車に追突し、シートごと地面にたたきつけられて死亡してしまいます。
タラレバの話になりますが。前戦でのピローニとの確執がなかったらこの悲劇は起きなかったかもしれません。

ヴィルヌーブ亡き後、ピローニは好調を維持し続け、第11戦フランスGP終了時点では9ポイント差でランキングトップに位置していましたが、第12戦ドイツGPで今度はピローニ自身に不幸が襲い掛かります。
豪雨で視界不良のホッケンハイムリンクの土曜日午前中のフリー走行中、直線で280km/h位のハイスピードで走行中のピローニ車が、アラン・プロストのルノーの後輪に乗り上げて宙を舞い、地面にたたきつけられて大破した車に押しつぶされて両足を複雑骨折する大怪我を負ってしまいます。
結果的に1982年シーズンは、Williams FW08に乗るケケ・ロズベルクにチャンピオンの座を奪われ2位で終わりました。

ヴィルヌーブとピローニのツーショット。
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ピローニの駆るFerrari 126C2.
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ドイツGPの事故でクラッシュしたピローニ車。
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事故後F1への復帰を模索しつつパワーボートレースの世界に進出したピローニですが、1987年のパワーボート世界選手権の最中に高速で転覆し、クルー2名とともにあの世に旅立ってしまいました。合掌
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ピローニの1/18スケールフィギュアは、Le Mans Miniatures社から素晴らしい出来のものが発売されています。
最近の同社のフィギュアは、本人の特徴を非常にうまくとらえているものが多いのですが、これもピローニそっくりです。
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1978年のルマンでルノーに悲願の初優勝をもたらした、Renault A442B #2(Norev製)と並べてみました。
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1980年のルマンにBMWフランスから参戦したBMW M1 #83(Minichamps製)と並べてみました。
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ピローニというとやはりFerrari 126C2というイメージなので、GP Replicas製の126C2と並べてみました。
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1982年というとエンツォももう84歳の高齢なので、こんな光景は現実にはなかったかもしれませんが、Scale Figures社製のエンツォのフィギュアと一緒に並べてみました。

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このシリーズは過去にこんな記事をアップしていますので、ご興味のある方はお暇なときにご覧ください(表題をクリックすると記事にリンクします)


ドライバーフィギュアの世界Part 1 (1/18スケール その1)
ドライバーフィギュアの世界Part 2 (1/18スケール その2)
ドライバーフィギュアの世界Part 3 (1/18スケール その3)
ドライバーフィギュアの世界Part 4 (1/12スケール)
ドライバーフィギュアの世界Part 5 (伝説のアルファドライバー タツィオ・ヌヴォラーリ)
ドライバーフィギュアの世界Part 6 (史上最高のドライバー ファン・マヌエル・ファンジオ)
ドライバーフィギュアの世界Part 7 (フライング・スコット ジム・クラーク)

ドライバーフィギュアの世界Part 8 (ブガッティの女王 エレ・ニース)

2021年05月01日 イイね!

ドライバーフィギュアの世界 Part 8 (ブガッティの女王 エレ・ニース)

ドライバーフィギュアの世界 Part 8 (ブガッティの女王 エレ・ニース)

4年ぶりにアップするドライバーフィギュアの世界は、1930年代の数々のレースで男性に混じって活躍したフランスの女性レーシングドライバー エレ・ニースをご紹介します。




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エレ・ニース(Hellé Nice 1900~1984年)本名マリエット・エレーヌ・ドラングル(Mariette Hélène Delangle)は、1900年にパリの南西70kmにあるオネ・ス・オノーという小さな村の郵便局長の娘として生まれました。
16歳の時にパリに出たエレーヌ・ドラングルは、当初は画家のヌードモデルなどで生計を立てていましたが、次第にダンサーとして頭角を現し、有名クラブや劇場で売れっ子ダンサーとして活躍するようになります。エレ・ニースという芸名もこの頃から名乗るようになったようです。
この写真を見ると、かなりセクシー系のダンスのようですね(^-^;
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売れっ子ダンサーとして華やかな生活を送っていたエレ・ニースですが、1929年の初めにスキー中の事故で、ダンサーの命というべき膝の軟骨を痛める大けがを負ってしまいます。
このケガでダンサー生命を絶たれてしまいますが、スリルと華やかな世界を求める彼女が次に向かった先は、当時フランスで盛んになってきた自動車レースの世界です。

彼女のドライバーとしての才能と宣伝価値に目を付けたブガッティからのオファーで、ブガッティの本拠地モルスハイムで特訓を受けたエレ・ニースは、1929年12月にモンレリーの高速周回路で速度記録に挑戦し、10マイル平均194.266km/h(ベストラップ197.7.8km/h)の女子世界新記録を達成し一躍時の人となります。

エレ・ニースの初レース、第3回レディース自動車デーGP(1929年6月)で見事優勝を遂げた後、オメガ シックスの運転席でお化粧直しをするエレ・ニース。
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1929年12月、速度記録挑戦に臨む直前のエレ・ニースと2L過給機付きBugatti T35。
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この後、愛車Bugatti T35Cを駆って数々のGPレースやヒルクライム、ラリーなどで活躍します。

1930年6月にル・マンのサルト サーキットで開催されたブガッティGPに出場したエレ・ニース。
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同レースで3位に入賞し、エットーレ・ブガッティの息子ジャンから祝福を受けるエレ・ニース。
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1931年8月、雨のグルノーブルGP(7位)でずぶ濡れのエレ・ニース。
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1931年8月、コマンジュGP(サン・ゴタン サーキット)において9位でゴール後、得意満面でカメラに向かってポーズをとるエレ・ニース。
後述する彼女の伝記“The Bugatti Queen”の表紙にも使われている有名な写真です。
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Bugatti T35Cの戦闘力に陰りが見られた1933年シーズン途中からはアルファロメオにスイッチし、ブルーとライトブルーのツートーンに塗られたAlfa Romeo 8C 2300 Monzaを駆って活躍します。

1934年6月、VIII ADAC Eifelrennen (ニュルブルックリンク)に出場したエレ・ニースと8C 2300 Monza。
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半袖に付いたリボンが彼女のトレードマークです。
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1935年8月、コマンジュGP(7位)のレース前にポーズをとるエレ・ニースと8C 2300 Monza。
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この時期のエレ・ニースは、スターティングマネーだけで1レース当たり現在の価値で10万ドルを稼ぐスタードライバーであり、EssoやLucky Strikeなどからの広告収入もあって、豪奢なアパートメントに住み、超高級車のイスパノ・スイザを乗り回わし、華麗な男性遍歴を繰り広げるといった人生の絶頂期にありましたが、1936年に大きな不幸が彼女に降りかかります。

7月にブラジルで開催されたサンパウロGPに出場したエレ・ニースは、ブラジルの英雄デ・テッフェを追って3位で最終ラップの最終コーナーを立ち上がった所で突然コース上に転がり出てきた藁のバリアにぶつかりコースアウトしてしまいます。
コントロールを失った車はコースにはみ出さんばかりに詰めかけた観衆をなぎ倒し、40人が死亡し34人が病院で手当てを受ける(内6人はその後死亡)という南米レース史上最悪の事故を引き起こしてしまいます。
車から放り出されたエレ・ニースは昏睡状態で病院に運び込まれましたが、地面にぶつかる前に警備中の警官にぶつかったことが幸いして(その警官は死亡)一命をとりとめます。

サンパウロGPでの事故の瞬間の写真。
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昏睡状態で救助されるエレ・ニース。
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ぐちゃぐちゃになったエレ・ニースの8C 2300 Monza。
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この事故は彼女のミスによって引き起こされたものではないため、却って彼女には同情が集まり、ブラジル政府からも多額の賠償金を受け取ったようです。
事故の傷が癒えた後も、ミッレ・ミリアやトリポリGPなどへの出場を目指して活動した様ですが、彼女をスポンサーしてくれる所はなく、戦争が始まるまでの目立った活動としては1937年5月にモンレリーの高速周回コースで実施された耐久速度記録トライアル程度しかありません。

このトライアルは、Yaccoオイルが自社オイルの宣伝の一環として企画したもので、女性だけの4名のチームで10日間に渡って昼夜兼行で走り続けるという過酷なトライアルです。
エレ・ニースはチームの一員として参加し、10日間の平均速度139.99km/hをはじめとする10個の世界記録と15個の国際記録の樹立に貢献しました。

Mat-Ford V8の運転席に座るエレ・ニースとヤッコ・トライアルチームの面々。
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長い戦争もやっと終わり、またレース界に復帰しようとしたエレ・ニースに人生最大の不幸が降りかかります。
1949年1月に開催されたモンテカルロ・ラリーの歓迎晩餐会の席上、エレ・ニースのかつてのチームメイトでもあった名ドライバー ルイ・シロンから、「ゲシュタポの手先だった女が何故ここに居るのだ?」と公然と罵倒されます。
これは事実ではなく濡れ衣だったようですが、一度付いてしまった「ナチスの犬の売国奴」という汚名が簡単に消えることはなく、レース界からも追放され、一緒に暮らしていた年下の愛人が投資に失敗して財産も失い、愛人も去っていき、人生がどんどん暗転していきます。

晩年のエレ・ニースは、ニースの旧市街の港の裏にある安アパートに一人ぼっちで暮らし、慈善団体の援助に頼る困窮した生活の中で、1984年に地元の病院で誰にも看取られることなく寂しく世を去りました。
以前から母親や姉との折り合いが悪かった彼女の名前は、ドラングル家の墓石にも刻まれていません。

こうしてエレ・ニースの名前もその功績も人々の記憶から消え、歴史の中に埋没してしまっていましたが、2004年にミランダ・シーモア(Miranda Seymour)によって彼女の伝記“The Bugatti Queen”が刊行されて、戦前に第一線の男性ドライバー達と同じ土俵でハンディキャップなしに戦っていた勇敢な女性ドライバーが居たということが再発見され、その功績が見直されています。
二玄社から和訳版も刊行されていますので、もっとエレ・ニースのことを知りたい方はご一読ください。
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エレ・ニースの1/18スケールフィギュアは、Scale Figuresというロシアのメーカーから素晴らしい仕上がりのものが発売されています。
このメーカーは最高品質の1/18スケールフィギュアを多数販売しており、以前からその存在は知っていたのですが、一般のミニカーショップでは扱っておらず、ロシアのメーカーということもあって入手ルートが分からず今日まで至っていましたが、やっと入手ルートを開拓したので数体購入してみました。今回の記事を書く気になったのもこの素晴らしいフィギュアを手に入れることができたからです。

前述の伝記の表紙にも使われている、1931年8月に開催されたコマンジュGPレース後の写真に写っているエレ・ニースを再現したものですが、得意の絶頂にある彼女の姿を完璧に再現しています。
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CMCから発売されている、これまた完璧な仕上がりのBugatti T35に乗せて、コマンジュGPの写真を再現してみました。
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彼女が乗っていたAlfa Romeo 8C 2300 Monzaの1/18スケールミニカーはどこからも発売されていませんが、CMCあたりに是非エレ・ニース仕様もモデル化してもらいたいものです。
私は私有していませんが、1/43スケールではMG Modelから発売されています。
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このシリーズは過去にこんな記事をアップしていますので、ご興味のある方はお暇なときにご覧ください(表題をクリックすると記事にリンクします)

なお、赤字のヌボラーリの記事については、その後もっと出来の良いフィギュア―を入手したので写真を撮り直して加筆した改訂版です。一度ご覧になった方も再度ご一読ください。
ドライバーフィギュアの世界Part 1 (1/18スケール その1)
ドライバーフィギュアの世界Part 2 (1/18スケール その2)
ドライバーフィギュアの世界Part 3 (1/18スケール その3)
ドライバーフィギュアの世界Part 4 (1/12スケール)
ドライバーフィギュアの世界Part 5 (伝説のアルファドライバー タツィオ・ヌヴォラーリ)
ドライバーフィギュアの世界Part 6 (史上最高のドライバー ファン・マヌエル・ファンジオ)
ドライバーフィギュアの世界Part 7 (フライング・スコット ジム・クラーク)

2017年01月17日 イイね!

ドライバーフィギュアの世界Part 7(フライング・スコット ジム・クラーク)

ドライバーフィギュアの世界Part 7(フライング・スコット  ジム・クラーク)このシリーズのPart 5で戦前を代表する伝説のドライバー ヌヴォラーリを、Part 6で50年代を代表する伝説のドライバー ファンジオをご紹介しましたが、久々にお送りするPark 7では、60年代を代表する伝説のドライバー ジム・クラークのフィギュアと関連するミニカーをご紹介したいと思います(かなりの長編です(^_^;))。


なお、このシリーズは過去にこんな記事をアップしていますので、ご興味のある方はお暇なときにご覧ください(表題をクリックすると記事にリンクします)
ドライバーフィギュアの世界Part 1 (1/18スケール その1)
ドライバーフィギュアの世界Part 2 (1/18スケール その2)
ドライバーフィギュアの世界Part 3 (1/18スケール その3)
ドライバーフィギュアの世界Part 4 (1/12スケール)
ドライバーフィギュアの世界Part 5 (伝説のアルファドライバー タツィオ・ヌヴォラーリ)
ドライバーフィギュアの世界Part 6 (史上最高のドライバー ファン・マヌエル・ファンジオ)

ジェームズ・”ジム”・クラークJr.(James "Jim" Clark Jr. 1936~1968年)は、1960年にロータスのコーリン・チャップマンに見いだされてF1デビューして以来、1968年に事故死するまでに、フライング・スコット(天駆けるスコットランド人)と称された天性の走りでグランプリシーンを駆け抜け、72戦25勝、ワールドチャンピオン2回(1963年、65年)、PP33回(セナに破られるまで歴代1位)、PP獲得率45.5%(ファンジオに次いで歴代2位)といった目覚ましい戦績を残すと共に、Indy 500でも優勝1回(1965年)、2位2回(1963、1966年)を誇る60年代を代表する伝説のグレートドライバーです。
名機Ford DFVエンジンと傑作マシンLotus 49を得てさらなる活躍が期待された1968年4月7日、無理して出場しなくてもよかったヨーロッパF2選手権第2戦(ドイツのホッケンハイムリンク)に出場したクラークのLotus 48は突然コースアウトして木に激突、弱冠32歳の若さで天に召されてしまいました。


初めてのワールドチャンピオンを決定させた1963年のイタリアGP(Monza)で、チャップマンを載せてビクトリーランするクラークのLotus 25.


BTCCなどでLotus Cortinaも走らせていました


1965年のIndy 500で初優勝したクラークのLotus 38


1966年のモナコGPを走るクラークのLotus 33


1967年のオランダGP(Zandvoort)でデビューウィンを飾ったクラークのLotus 49


1967年イタリアGP(Monza)のクラークのLotus 49


1968年4月7日、ホッケンハイムの露と消えたクラークのLotus 48の残骸。
シートベルトなど装備されていない時代なので、車外に投げ出されたクラークは即死状態だったそうです。事故原因は今なお不明。


ジム・クラークの1/18スケールフィギュアは、ドイツのFigurenmanufaktur社とフランスのLe Mans Miniatures社から発売されています。
先ずこちらはFigurenmanufaktur社製。
このメーカーのフィギュアはどうもスタイルが良すぎる傾向があります。




こちらはLe Mans Miniatures社製。
やはりこちらの方が数段良い出来ですね(*^_^*)




英国のEndurance社から発売されたより大スケール(多分1/9)のフィギュアも入手しています。
こちらも流石の仕上がり(*^_^*)




それでは次に、1/43ミニカーで年代順にジム・クラークの車を辿ってみましょう。

1959年
まだTeam Lotusの一員になる前、Boder Reiversというチームからルマンに出場し、10位に入ったLotus Elite(IXO製)




1960年
チャップマンに見いだされてTeam Lotus入りし、第4戦オランダGPからF1に出場。この年の入賞は3位1回、5位2回のみ。
このSMTS社製のLotus 18/Climax4のミニカーは、デビュー戦のオランダGP出場車を再現しています。
SMTS社は英国のホワイトメタル製ミニカーのキット・完成品メーカーですが、最近のシャープなレジン製ミニカーと違って、重厚な重量感とおおらかな雰囲気が古き良き時代の味を出していて中々好きです。




この時代のTeam LotusのトランスポーターFord Thames 400E(SMTS製)と一緒に並べてみました。これもホワイトメタル製なのでメッチャ重いです。


1961年
Lotus 21/Climax4でF1全8戦に出場し、入賞は3位2回、4位1回、7位1回。
このSMTS社製ミニカーは、3位に入ったフランスGP(Reims)出場車を再現しています。




1962年
革新的なバスタブ式アルミモノコックシャーシーのLotus 25/Climax V8を得て、クラークの才能が開花!! F1全9戦中PP6回、優勝3回、4位1回を得るも、最終戦の南アフリカGP(East London)でリタイアに終わったためBRMのグラハム・ヒルにチャンプの座をさらわれてしまいました。
このSMTS社製ミニカーは、優勝したベルギーGP(Spa Francorchamps)出場車を再現しています。




この年は、Lotus 23でスポーツカーレースにも出場しています。
このSpark製ミニカーは、ニュルブルックリンク1000km出場車(リタイア)を再現しています。




1963年
熟成の進んだLotus 25を駆って、F1全10戦中PP7回、優勝7回、2位1回、3位1回、8位1回の大活躍!!開幕戦のモナコGP以外は全て表彰台に上がり、初のワールドチャンピオンに輝きました。
ワールドチャンプを決めた第7戦イタリアGPの出場車を再現したこのミニカーは、伊Tameo社のフルディテールキットをアマチュアモデラーが組み上げたものですが、1/43とは思えない再現度です(*^_^*)




ミニカーは持っていないのですが、この年はIndy 500にも初参戦し、首位に僅差の2位に入っています。

1964年
シーズン途中から投入されたLotus 33/Climax V8の信頼性がイマイチの為、後半戦に失速したが、それでも10戦中PP4回、優勝3回、4位1回、5位1回、7位1回を獲得、最終戦メキシコGPでもラスト2ラップまでトップを独走し連続チャンプ確実と思われたがオイルパイプ破損の為無念のリタイア、Ferrariのサーティースにチャンピオンの座をさらわれてしまいました。
今回初めて気が付きましたが、この年のクラークのF1マシンのミニカーを入手していませんね~(^_^;)

この年もLotus 34でIndy 500に出場しPPを獲得しますが、決勝では序盤にリタイアを喫しています。
ミニカーはSMTS社製です。




Lotus Cortina Mk.1でもレースに出場していました。
このMinichamps製ミニカーは、Crystal Paleceで開催されたBritish Saloon Car Championshipで優勝した車を再現しています。




1965年
クラークのLotus 33がF1を席巻し、10戦中(内Indy出場のためモナコ欠場)PP6回、優勝6回で2度目のチャンピオン獲得!!
このSMTS社製ミニカーは、チャンプを決めた第7戦ドイツGP(Nurburgring)の姿を再現しています。




Lotus 38で出場したIndy 500も見事初優勝!!
ミニカーはSMTS社製です。




Lotus 40でスポーツカーレースにも出場しています。
このSpark製ミニカーは、Brans Hatchで開催されたBritish Sports Car Championshipレースに出場したマシン(リタイア)を再現しています。




1966年
このシーズンからF1エンジンの排気量が1.5Lから3Lに改訂されたが、エンジンが間に合わないLotusは第6戦ドイツGPまでは2LのClimaxエンジンを積んだLotus 33、それ以降最終戦まではBRMのH型16気筒というゲテモノエンジンを積んだLotus 43でしのいだため、さすがのクラークをもってしてもPP2回、優勝1回、3位1回、4位1回にとどまる。
このSMTS製Lotus 43/BRM H16のミニカーは、貴重な1勝を稼いだUS GP (Watkins Glen)の姿を再現しています。




この年のIndy 500にはSTPカラーに身を包んだLotus 38で参戦し、2位に入っています。
ミニカーはSMTS社製。




1967年
コスワースと密かに開発を進めていたフォードコスワースDFVエンジンを積んだLotus 49を第3戦オランダGP (Zandvoot)から投入し、見事クラークの手でデビューウィンを飾る。クラークはPP6回、優勝4回、3位1回、6位1回を獲得するも、チャンプの座はわずか優勝2回のブラバムのデニス・ハルムの手に・・・・(^_^;)
このVitesse製ミニカーは、デビューウィンを飾ったオランダGPの姿を再現しています。




この年から排気量1Lから1.6Lに規定変更されたF2にも新型コスワースFVAエンジンを積んだLotus 48を投入し、ジム・クラーク、グラハム・ヒル、ジャッキー・オリバ-達の手でこの年のF2を席巻しました。
ミニカーはSMTS社製。




この年もIndy 500にLotus 38で出場していますが、リタイアに終わっています。
ミニカーはSMTS社製。




1968年
この年もLotus 49/Fordとクラークは絶好調、初戦の南アフリカGP (Kyalami)をポール・ツー・ウィンで飾り、ついにファンジオが持つ通算優勝記録を抜く通算25勝をマーク!!
しかし、これが彼の最後の優勝記録となるとはいったい誰が想像したでしょうか!!
SMTS社製の南アフリカGP出場車です。




こちらは伊Meri Kitのフルディテールキットをアマチュアモデラーが組んだ物です。
SMTSのと結構細部が違っているのは何故???




この年のIndy 500には新開発のタービンカーLotus 56を投入する予定で、クラークもTestに参加していました。




クラーク最後の車となったLotus 48。
合掌!!
この年の途中からGold Leafがスポンサーとなったので、ゴールドリーフカラーに塗られています。
これがきっかけとなって、F1にコマーシャリズムが持ち込まれるようになりました。




Sparkの1/18スケールLotus 25/Climax V8 1963年イタリアGP優勝車とフィギュアを組み合わせてみました。




Part 2でご紹介したJo Siffertのフィギュアと組み合わせてみました。
1963年のF1のパドックで、本当にこんな光景に出合えたかもしれません。


AUTOartの1/18 Lotus Cortina Mk.1と組み合わせてみました。


1967年シーズンからTeam Lotusで使われたトランスポーター(Spark製)を背景に置いてみました。


まだまだPart 8も続くよ~~~!!
2016年01月18日 イイね!

ドライバーフィギュアの世界Part 6 (史上最高のドライバー ファン・マヌエル・ファンジオ)

ドライバーフィギュアの世界Part 6 (史上最高のドライバー ファン・マヌエル・ファンジオ)前回のエントリー(こちら)で、戦前にアルファを駆って大活躍した伝説のドライバー タツィオ・ヌヴォラーリをご紹介しましたが、今回は50年代のレースシーンに君臨した伝説のグレートドライバー ファン・マヌエル・ファンジオのフィギュアとミニカーをご紹介します。



ファン・マヌエル・ファンジオ・デラモ(Juan Manuel Fangio Déramo 、1911~1995年)は、1951年(アルファロメオ)、1954~55年(メルセデス)、1956年(フェラーリ)、1957年(マセラティ)の5回ものF1ワールドチャンピオンに輝く、50年代を代表する伝説のドライバーです。


F1通算24勝という個人最多勝記録は1968年にジム・クラークに、不滅と言われたワールドチャンピオン獲得5回も2003年にミハエル・シューマッハに抜かれましたが、46歳での最年長チャンピオンという記録はこれからも抜かれることはないのではないでしょうか。
F1参戦51戦中24勝という驚異的な勝率(47.1%)も歴代ドライバーでダントツです。

ドライバーとしてだけでなく、紳士的な振る舞いや言動でも皆から尊敬を集めたファンジオは、母国アルゼンチンでは国民的英雄として敬愛され、84歳で亡くなった時は国葬で送られました。
「史上最も速いドライバーはだれか?」という話になると、ヌヴォラーリと並んで必ず真っ先に名前が上がる偉大なドライバーです。
さらに詳しく知りたい方は、こちらこちらをご覧ください。

F1が始まった1950年は同僚のファリーナにわずか3ポイント及ばず2位になりましたが、翌1951年は台頭著しいフェラーリを振り切って初めてのチャンピオンに輝きました。
1951年のベルギーGP(Spa-Francorchamps)を走るファンジオのAlfa Romeo 159 Alfetta 。


事故による大怪我で1952年シーズンを棒に振ったファンジオは、マセラティ―を経て1954年にF1に復帰したメルセデスにエースドライバーとして迎えられました。
強力なマシンW196と完璧なサポート体制の下でファンジオは破竹の勝利を続け、2年連続世界チャンピオンに輝きました。


ファンジオはF1だけでなくスポーツカーレースでも活躍しました。
1955年のルマンを走るファンジオのMercedes Benz 300SLR(リアに立ち上がっているのは可動式のエアブレーキ)。
この後ルヴェーの駆る300SLRが周回遅れの車と衝突して観客席に飛び込み80人以上が亡くなるというレース史上最悪の事故が起きますが、直後を走っていたファンジオは間一髪回避して難を逃れました。


この事故を受けてメルセデスがレースから完全撤退してしまったため、翌1956年はフェラーリに迎えられました。
エンツォ・フェラーリとの確執であまり居心地の良い待遇ではありませんでしたが、それにも負けず4度目のワールドチャンピオンに輝きました。
1956年のファンジオの愛車、Lancia-Ferrari D50.


翌1957年は、居心地の悪いフェラーリから古巣のマセラティ―に移籍し、フロントエンジンF1の最高傑作と称えられる名車Maserati 250Fで5度目の世界チャンピオンに輝きました。
ファンジオの生涯最高のレースと言われる、1957年のドイツGP(Nurburgring)を走るファンジオの250F。


ファンジオの1/18フィギュアは、Le Mans Miniatures社とFigurenmanufaktur社から発売されています。
まずこちらはLe Mans Miniatures社の物です。
禿げかかった頭部、短躯、ずんぐり体型(169㎝、67㎏)でニックネームは「エル・チュエコ」(がに股)といわれていたファンジオの体型をよく表現していますが、顔は少々ふくよか過ぎるような気が・・・・。




こちらはFigurenmanufaktur社のものです。
同社のフィギュアはどれも小顔でスタイルが良すぎる欠点がありますが、これも少々イケメンでスタイルが良すぎる気が・・・・。
両者を足して2で割るとちょうど良さそうです(笑)。




こちらはEndurance社の1/9スケールの物です。
流石の出来ですが、体型は少々スリムすぎる気がします。
若き日のファンジオという感じでしょうか。




アルファ時代のファンジオの愛車159 Alfettaの1/18ミニカーは、exotoから素晴らしい作品が発売されていますが、これはファンジオが初めてのワールドチャンピオンを優勝で決めた、1951年のスペインGP(Pedralbes)の姿を再現したものです。




1,479cc 直列8気筒スーパーチャージャー付エンジンやコクピットも完璧に再現されています。




exotoからはボディーを取り払ったベアシャーシーモデルも発売されています。
オイルと燃料を入れたら走りそうな、病的なまでのすさまじい再現度です。








当時のアルファのトランスポーターの1/43ミニカー(これもexoto製)を背景に置いてみました。


CMCからは、ファンジオが1954~1955年に走らせたMersedece Benz W196が何種類か発売されていますが、これは1955年のイタリアGP(Monza)で見事優勝を飾ったマシンを再現しています。
当時のF1はオープンホイールに限定されていなかったので、高速サーキットではこうした流線型のStreamlinerボディーも使われました。
オープンホイールのW196とそれを運ぶ高速トランスポーターのミニカーは、Part 3でチーム監督のノイバウアのフィギュアを取り上げた時に紹介していいますので、こちらをご覧ください。




発売されてからもう10年弱経ったと思いますが、2.5L 直列8気筒直噴エンジン(290hp)やコクピットも完璧に再現されています。




当時のメルセデスチームのトランスポーターの1/43ミニカー(左はSt.-Petersburg Tram Collection製、右はCMC製)を背景に置いてみました。


私の知る限り、1956年にファンジオが走らせたLancia-Ferrari D50の1/18ミニカーは発売されていないので、最後に1957年に5度目のワールドチャンピオンをファンジオにもたらしたMaserati 250Fの1/18ミニカー(CMC製)をご紹介します。
ファンジオの生涯最高のレース、1957年のドイツGP(Nurburgring)の優勝車を再現しています。




これも発売されてから大分経つミニカーですが、2,995cc 直列6気筒エンジンやコクピットも完璧な出来です。
ボルトの緩み止めワイヤーまで再現されています。




当時のマセラティ―チームのトランスポーターの1/43ミニカー(exoto製)を背景に置いてみました。
2016年01月05日 イイね!

ドライバーフィギュアの世界Part 5(伝説のアルファドライバー タツィオ・ヌヴォラーリ)ー 改訂版

ドライバーフィギュアの世界Part 5(伝説のアルファドライバー タツィオ・ヌヴォラーリ)ー 改訂版

遅ればせながら、皆さん明けましておめでとうございます。

前回のブログ記事で2015年を振り返って見たら、昨年度は4Cや農道探検のことばっかりで、ミニカーネタの記事を全く書いていなかったことに気づきました(^_^;)
お正月休みを利用して撮影を行ったので、久しぶりのミニカーネタとして、伝説のアルファドライバー タツィオ・ヌヴォラーリのフィギュアと関連するミニカーをご紹介したいと思います。

なお、このシリーズは過去にこんな記事をアップしていますので、ご興味のある方はお暇なときにご覧ください(表題をクリックすると記事にリンクします)
ドライバーフィギュアの世界Part 1 (1/18スケール その1)
ドライバーフィギュアの世界Part 2 (1/18スケール その2)
ドライバーフィギュアの世界Part 3 (1/18スケール その3)
ドライバーフィギュアの世界Part 4 (1/12スケール)

タツィオ・ジョルジョ・ヌヴォラーリ(Tazio Giorgio Nuvolari 1892年~1953年)は、戦前のレースで、アルファのレーシングカーを駆って鬼神のような走りで数々のレースに優勝し、アルファが最も輝いていた黄金時代を築いた偉大なレーシングドライバーです。
我々アルフィスタは、足を向けては寝られない存在ですね。
この辺のことを書き始めると長くなるので、もっと知りたい方は、こちらこちらこちらをご覧ください。

中々ワイルドな顔立ち(笑)の彼ですが、いつもTNのイニシャルの入った黄色のシャツと、詩人ガブリエーレ・ダンヌンツィオから贈られた金色の亀のブローチを身につけてレースに臨んでいました。
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当時実質的なアルファのワークス活動を行っていたエンツォ・フェラーリに見いだされ、1930年にスクーデリア・フェラーリ入りした彼が見事優勝を飾った、1930年のミッレ・ミリアでのヌボラーリ(コ・ドライバーはGiovan Battista Guidotti)とAlfa Romeo 6C 1750 GS Spider Zagato
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1931年の撮影。 ヌボラーリの隣は若き日のエンツォ・フェラーリ。

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1932年 Monza GPのヌボラーリとAlfa Romeo P3



1938年には、アルファを離れてAuto UnionからGPに出場し、3勝を挙げています。
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1/18スケールのヌボラーリのフィギュアは、これまでFigurenmanufaktur社のイマイチの出来のものしかありませんでしたが、Le Mans Miniatures社から素晴らしい決定版が発売されました。

どこから見てもヌボラーリで、Le Mans Miniatures社の最高傑作ではないでしょうか。

こちらの写真を元にモデル化したものと思われます。

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ロシアのScale Figures社から、若き日のエンツォ・フェラーリのフィギュアが発売されているので並べてみました。

スケールが違うんじゃないのと思われるかもしれませんが、ヌボラーリは160㎝台の小男、エンツォは180㎝以上ある大男なので、実際もこんな凸凹コンビです。
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Scale Figures社からも出来の良いヌボラーリの1/18スケールフィギュアが発売されています。

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こちらはもっと大スケールの、英国Endurance社製フィギュアです。
スケールの記載がないのですが、台座を除いた高さが182㎜位なので、多分1/9スケールだと思われます。
これもどこから見てもヌボラーリそのものですね(*^_^*)
しかし、現在は走行会でもヘルメットと長袖着用が義務付けられているのに、半袖シャツにほとんど頭部保護機能が無いようなレザーヘルメット、おまけに車にシートベルトは無いしオープンコクピットなのにロールバーもなし、タイヤのグリップ性能は現在とは比較にならない位プアー (^_^;)
当時のドライバーは命知らずです。
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1930年のミッレ・ミリア優勝車 Alfa Romeo 6C 1750 GS Spider Zagatoのミニカーと並べてみました。
これまでヌボラーリが乗ったアルファの1/18ミニカーがなかったのですが、昨年CMCがこれを出してくれたので今回のブログが書けました(*^_^*)
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Exotoと並ぶ1/18ハイエンドミニカーの雄CMCの最新作だけあって、細部まで文句のつけようのない完璧な出来です。
フィギュアが横に無かったら、実車の写真と見間違えそうです。
私もモデラーの端くれですが、こんな細かい模型を、よく1,000台規模で量産できるものだと感心します。
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1938年のGPでヌボラーリが駆ったAuto Union TypeDの1/18ミニカーと並べてみました。これもCMCの作品です。
十数年前に発売されたミニカーですが、現在の眼で見ても素晴らしい出来です。
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ミッドに搭載された、スーパーチャージャー付V12 3L 420馬力エンジンも精密に再現されています。
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次回は、もう一人の伝説のアルファドライバー ファン・マヌエル・ファンジオを予定していますので、乞うご期待!!

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「4Cで広域農道攻めてたら、ミッションのオーバーヒート警告が出て(ミッション油温計は130℃😱)セーフモードに入ってしまい、パドル操作を受け付けなくなった😰 クールダウンして再始動したら正常に復帰したけど、暑過ぎです😓」
何シテル?   07/13 16:41
セクシーな赤いイタリア娘をこよなく愛するRosso Alfaです。 ちょっと古めのレーシングカーとそのサポートカー、トランスポーターのミニカー収集も趣味の一つ...
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