2020年07月26日
備忘録1
有能/無能世界観を支える新自由主義
有能/無能二元論の内面化は、新自由主義イデオロギーが通俗道徳化するにつれて強化されてきた。この通俗道徳のもとでは、人間は自由であり、自分の能力次第で何でもできるとされ、自己決定と自己責任のもとで、個人の市場価値をひたすら高めることを称揚される。
個人の自由の追求は、元々は左派が要求してきたテーマでもあった。だが、前近代的な制度や不自由を押し付ける権威の打破の先にあるのが新自由主義であった。文芸評論家の絓秀実は、1968年革命の帰結が新自由主義改革だとしている。たとえば当時の学生は大学解体を訴えたが、まさに国立大学の独法化によって、大学は解体されたのである。
我々は小学生のころから自由に個性を伸ばせと教えられる。21世紀の教育では、保守的な教師でさえ、個性などいらぬと言うわけにはいけない。だがもちろんそれを真に受けて、児童生徒は本当に自由に振る舞ってはいけない。それはあくまでも市場価値がある個性のことであり、最終的に自己啓発セミナーまがいのイニシエーションが求められる就職活動を経て、完成する個性のことなのだ。
そうやって、自分自身の能力を特別な商品として売りつけることを当然のごとく規範化して「社会人」となっていく人々に、階級意識は育たない。「給料をあげさせるためにデモする暇があったら自己研鑽して自分の商品価値を高めよ」と言われてしまうのだ。
元々日本は、実態がどうであったかにせよ、中産階級意識の高い国であった。だが「幸福な時代」が終わり、新自由主義経済の浸透で格差が急速に拡大していく中、労働者意識が再び勃興することもなく、新自由主義的個人だけが宙吊りのまま取り残されている。
階級など存在しない、あらゆる個人は平等である。ただ勝者と敗者がいるだけである。そして勝者は努力した者のことであり、敗者は怠けた者である。したがって格差とは自己責任なのだ。このような価値観を内面化した者に、いかなる連帯が可能であろうか。自分が貧困なのは自分が無能であり価値がないからなのだから、団結して社会のほうを変えようとするのは道徳的悪なのだ。自分が弱者だと認めることは自分の無能を認めることになり、それならば自分にはまだ「チャンス」がある者として、誰の助けを借りないという選択を選ぶ方がまだましだ、となる。
ブログ一覧 |
わたしがおしえてあげるわよ | 日記
Posted at
2020/07/26 11:00:02
今、あなたにおすすめ