2020年08月27日
①ぜひ感想を頂きたい。これをビラにして配るのだが。
民主主義は多数決で意思決定を行う制度か
それとも少数者の意見を拾い上げる制度か
表題はともに正しい。二人以上の人間で構成される集団においては、個人の意思とは別に、集団としての意思決定をしなければならない。親子、友達、学校、職場、…国家。集団の意思決定が行われて、集団成員がそれに従わなければ、意思決定は覆されてしまう。
たとえば、親しい二人の人間がいて次の週末はどこにいこうかと話し合う。「山だ」「海だ」「街だ」「田舎だ」「国内だ」「海外だ」いずれかに意見をまとめなければならない。二人はまとめやすい。数において対等だからだ。
しかし3人となると様子が異なる。単純に多数決で決めると、あぶれた一人は不満を感じるかもしれない。同じ「延期」という判断でも「天気が悪いから」「来月にはキャンペーンで安く行けるから」「用事があって時間が取れないから」など合理的(受け入れられる根拠があること)かつ合目的的(目的に適うこと)など3人がともに「説明と納得」の過程を経ていれば、平穏に意思決定ができるだろう。
このことから言えるのは、単なる多数決では不満が生じやすく、話し合いによって説明がなされて納得がえられれば、少数者の意見も反映され、多数の意思に従ったとしても、不満は生じにくいだろう、ということだ。
ここに一つの例を引く。
私は23歳から28歳の5年間、菜食主義者であった。もちろん社会的関係(家庭や学校や働く場での人間関係)が存在した。あるとき友人数名を交えて、外食をすることになった。そこで何を食べるかが問題となる。私が菜食主義者だからである。意思決定はどのように行われたか。
「みんなが楽しめる」これが一番の決定事項だった。僕以外はみんな「普通の食の嗜好」いわゆる雑食主義者だったのであるが、僕が楽しめないだろうということで、お店が選ばれた。こういうことが繰り返されると、不満が出てくる。「なぜ少数者に従わなければならないのか」
民主主義は多数決だということに慣れているものは、少数者によって自分の嗜好が否定されていると感じるようになってくるのだ。大方は「少数派とともにみんなで仲良くしたいときは、少数者の嗜好に従うことになる」「そうでないときは雑食の嗜好に従えばいい」と理解していた。
しかし、外食はいつも菜食主義者を交えてのことになっているひとは、自分の雑食主義を認められないことになり不満が募る。友人関係は「柔らかい関係」(構成員が任意に入れ替わる。意思決定の過程に融通がある)だから、受け入れられなければ去っていく。
このような「柔らかい関係」ならば、その集団は意思決定において構成員の不満が生じにくく、不満があればその集団をはなれるということも選択肢としてある。いわゆる「多数決の論理」と「少数派の意見の尊重」の相反する規範が両立しやすい。
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2020/08/27 04:08:26
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