2015年11月11日
ルソーがディジョンのアカデミーに出した論文は、こうしたものだ。第三論文『社会契約論』に繋がる話でもある。
作業仮説として、人間が社会をつくって生活をする前の状態を想像する。
まあ、類人猿の社会を想像するといいだろう。
1)オランウータンは個体が孤立して生活する。発情期でもない限り、オスはメスに出会っても
発情するどころか、敵意を露に逃げ去るのだ。
となると、個体は自分の生存の欲求を満たすためには、自らの手ですべてを行う必要がある。
自然は当然に、個体一人ひとりにその能力を備えたと考えられる。
個体は、その生存に他者を必要としなかった。そんな状態ならば、平等や不平等という概念も存在しないだろう。
2)チンパンジーのようにヨコ社会的な対等な付き合いであればこれもまた、不平等は小さいものだろう。
病にかかったり、怪我をしたり、その偶発的な事象によって個体の寿命には些かの差別があったろうが、
それを問題にすることはできないだろう。
3)ゴリラのようなヒエラルキーのタテ社会ならどうだろうか…。ボスとその群れの個体の間にある不平等は。
1~3)ルソーはこのような議論はしない。
けれど彼のいう人間の自然状態は、社会を形成しない、
欲しいものは自分の能力の範囲で充足できるだけの
内部条件(筋力とか視力とか思考力とか・・・身体能力と精神力とか)と
外部条件(食料が十分にあるとか)に
問題となる差=不平等はないということ。
問題とは自己保存と種の保存。
すなわち、自分の寿命を全うすることと自分の遺伝子を残すこと、
これについて、問題となるような不平等は存在しなかった、と論じる。
しかし、次第に個体数が増えて、他の個体と接する機会が増えて、社会が形成されると、
人間の間の不平等が一気に増大するとルソーはいう。
どうでしょう。
孤立したオランウータン、ヨコ社会のチンパンジー、タテ社会のゴリラ。
それぞれの個体を見て、より不平等なのは、どの類人猿でしょうか?
Posted at 2015/11/11 23:31:39 | |
トラックバック(0) |
雑記 | 日記