
51番札所 石手寺
遍路道をつなぐお寺は、奈良(7~8世紀の中国思想による伽藍)でもなく、京都(国風文化における
寺院建築、もしくは書院造り的な)でもなく、鎌倉仏教の総本山的な巨大寺院でもなく、はたまた地方の檀家寺的な佇まいでもなく、特有の雰囲気を醸し出しているものであるが、
特に、ここ石手寺には驚かされた。
道後から、石手川沿いに(といっても民家の前を流れる、鯉がいてもおかしくないような小川である)
遡ること15~20分。
脇口から境内に入ったのだが、雑然とした雰囲気である。不思議な空間である。
パゴタがある(ビルマでの戦没者を追悼するものであった)
「奇妙な」彫刻がある。
遍路にまつわる逸話が書かれてある。
お釈迦さまの生涯を描いたレリーフがある。
そして、
「不殺生祈りの会」「集団的自衛権不用」
ああ、仏教の本来の精神だあ。
どうやら、お釈迦さまの思想、仏教思想こそ、本来の仏教思想、
仏教原理主義、がこのお寺には感ぜられます、
ただ言うだけではだめ、実行が必要だ。
そう書かれた読本に、このお寺の住職の活動が見て取れます。
僕の親父は、実家を離れて、愛媛大学に入学すると、
「遊び呆ける」と危惧したようですが、
全くの杞憂、それ以前に、「人間を見る目が無い」 糞親ですな。
おそらく石手寺に通い詰めて、出家していた可能性があります。
夕方で、洞窟にも入れなかったので再訪問したいですね。(高野山のとは違うのかな?)
JR四国の企画切符で。
この項、終わり。
あ、忘れてた。
石手。
これは、このあたりに住んでいた、地元のお金持ちが、遍路途中の糞坊主を足蹴にしたのだけれど、
結果、8人の子どもがみな死んだ。これはあのときの行いがよくないからだ、坊主にあって謝ろうと遍路に出るが出会えない。
そうだ、逆打ちすれば。
そして出会ったのが、弘法大師。あのときの糞坊主は弘法大師だったのだ。
そして彼は「今度は領主になって、布施をする人生を」と言って果てる。
時代が下って、地元の領主の家に赤ん坊が生まれる。手を握り締めたままである。
無理やり開くと、小石を握っており、そこには彼の名が書かれてあったというのである。
そして寺の名を改めた。
石手寺。
Posted at 2016/01/19 00:15:16 | |
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ドメスティック遍路 | 日記