外部規制で何か統制しようとする。
簡単だが安易である。俗に言えば「手抜き」である。
それではロボットしか生まない。
規律を守っているのだが、それは自分から守っているのか、守らされているのか。
その見えないところが肝心なのである。
この場でどう行動することが適切か。
中学の制服問題で、私服通学をいうと徹底的に叩き潰そうとされたのだが、
そういう世間さまは、小学校の卒業式に、いろいろとコスプレみたいな服装をさせるというのらしい。
私の「行動規範」は私のうちにしかないので、世間さまが「何を考えていようと」そんなことは知らない。
「何をなすべきか」は権力や多数派が与えるのではなく、それぞれが自分の頭で考え、心から従えることを行うものである。
それが啓蒙思想に感化されたものの考え方、進む道なのである。
簡単に言えば「カントの自由論」である。
むすめの通う小学校では、公式文書でドレスコードのアナウンスはないが
どこかで「2018年度から着物は禁止になった」らしい。
ご存知のとおり、我が家はで着物は普段着である。
それを着て何がいけないのか、理解できない。
多数派の「にわか」が邪魔をする。
当院の医者でも「にわか」がいて「むすめは番傘をさしてね」なんて会話を耳にしたことがある。
「蛇の目傘」と番傘の区別がつかない。
そんなひとは着物を着ないほうがいい。
当地は、普段着で着物を着ることが理解できないらしい。
着物に靴を履いたり、その他さまざまのアレンジをすることも奇妙にうつるらしい。
着物は儀式の衣装。そう理解しているようだけど、それでも基礎知識は必要だろう。
「着こなし」は大切だ。振袖の娘さんたちが、洋装のときと同じように歩いているのを見ると、美的感覚はどうなっているの?そもそも着物を着るときの所作をどう考えているのかと思う。にわかはぎこちない。
儀式の着物であっても、やはり日頃からの鍛錬は欠かせないものだと思うのだが。
さて脱線した話を本筋に戻す。
卒業式では、表現の自由だ、自己決定だと、コスプレさせる親たちが、
いざ入学すると今度は制服だ!と統制する。
この行動原理はどこからくるの? 一貫性のなさ。
いや、彼らの一貫性は「みんながしているから」という、そういう「奴隷道徳」。
(私のいう「奴隷道徳」はニーチェのそれとは違って、自分で考えない、無思考に与えられた規範に従うだけの道徳的価値観をいう。共通点は「弱いものの発想」ということである)
我が家は卒業式も入学後も、平服の私服でいいじゃあないかと、言っているだけなのだが。(華美になることもなく、何か規制される必要もなく、いつもどおりでいいじゃあないか、ということ。学校の儀式なんて、全く意味がないもの。本当の勉強をしてもらいたい)
(卒業記念に遊園地へ行くのだよ。修学旅行も行ったのに。学校が率先して、遊園地遊びを学習させるなんて、言語道断。そんなことのために学校へ遣らしているのではありません。子供の教育に必要なことを学校が施してくれたらいいのです。学校教育に生徒や家庭が協力するのではありません。主客逆転は間違いです)
一休禅師は、VIPの法要に参列するのに際して「襤褸の継ぎ接ぎの袈裟」で臨んだという。
もちろん先輩の禅師を始め多方面から諌められたが、彼は信念を貫き通す。
「何を言っておるのだ。絹錦の袈裟は仏の道から外れている。襤褸こそ正装だ。喝!」
そういえば、どこのお寺に行っても、襤褸を纏った坊主など見たことないな。
この国から「「正しい」道」が消え去ってどれほどになるのだろう。
「僕の前には道はない。僕が通った跡にも道はない」
Posted at 2020/01/23 04:04:50 | |
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ロバの耳 2016 | 日記