2020年10月15日
「自由」について字面を追うだけのものは「自由とは自分勝手」と考えるようだが、とんでもない誤りだ。人間は社会で生きる存在だから、他者や社会の存在を抜きに考え、行動することはできない。自由と平等はセットで考えられなければならない。「自由」が過去にどのように捉えたれていたかを、名言集から抜き出してみることにする(時代順に配列する)。
「あらゆる支配を免れた自由は、他者による節度ある支配よりも劣る」プラトン(ギリシャ)『法律論』
「ある場合に自由と称せられるものは、他の場合においては放縦と称せられる」クウィンティリアヌス(ローマ)『雄弁論』 「真の自由とは、自己のうえに万事をなしうることである」モンテーニュ(仏)『随想録』
「自由とは、法の許す限りにおいて、すべてのことをなす権利である」モンテスキュー(仏)『法の精神』 「人間は自由なものとして生まれた。且つ、至る所で鉄の鎖に繋がれている」ルソー(ジュネーブ)『社会契約論』
自分自身を支配できない者は自由ではない」マッティーアス・クラウディウス(独)『自由に関する対話』
「互いに自由を妨げない範囲で、わが自由を拡張すること、これが自由の法則である」カント(独)『断片』
「自由は責任を意味する。だからこそ、たいていの人間は自由を怖れる」バーナード・ショー (英)『革命主義者のための格言』 「真の自由は知性的である。本当の自由は訓練された思惟能力のうちに宿る」ジョン デューイ(米)『思考の方法』
「自由とは、個人的情熱の最たるものだ。だからこそ、それは今日では背徳的なのだ。社会において、より適切にいえば、それ自体において自由は背徳的なのだ」アルベール カミユ (仏)『手帖-1935~42』
「個人の自由とは、富者にとっては事実上の自由だが、貧者にとっては奴隷生活であった。貧欲から民衆を保護できたのは、国会が国家に賦与した権力のおかげだ」クレメント・リチャード・アトリー(英)『ありのままに』
「自由とは、自分が<自由である>と信ずるところの、一つの幻覚にすぎないのである」萩原朔太郎 『虚妄の正義-社会と文明』
本来「自由とは個人の情念に従って何事もなしうること」だが、それゆえ「節度」がなければ有害であり「他者や社会」あるいは「法律」によって制限されるし「責任」が追及される。従って「自由な振る舞い」は「知性により訓練された思惟能力」により「自分自身(もしくは理性)によって」制御されなければならない。そこに「自由のあるべき姿」が見えてくるはずだ。ところが時代が下って社会が豊かになると「自堕落な自由」が再登場する。そして再び「自由」は「背徳的」だとされる。また経済問題を含むさまざまな格差から「自由」から「奴隷状態」が生まれ、政治的に矯正される事態となる。最も悲しいことは「自由」の概念を「輸入する」だけで自ら獲得しなかった社会では「自由は実在しない」という。「自由」の本来の意味が失われた、忘れ去られた、あるいは知られていない、そういう時代、そういう場においては、もう一度「自由」の概念を構築する必要がある。
自由を考察する「自由論」において、教科書的存在として、イマニエル カント(1724-1804)とジョン=スチュアート ミル(1806-1873)を挙げることができる
カントはいう。「自由とは理性により自分で決めた格率(カント哲学の用語。行為規則のこと)に従うことであり、欲望に身を任せるのは欲望に支配されているので不自由である」とし、「自分の格率が同時に普遍的法則(誰にでも通用すること)となるように行為せよ」(更に3つに分類し「自分の行為の格率が自分の意思によってあたかも普遍的法則となるかのように行為せよ」「自分の人格と他者の人格を常に同時に目的として用い、決して単に手段としてのみ使用しないように行為せよ」「意思が自分の格率によって自分自身を、同時に普遍的立法を行う者と見做し得るように行為せよ」)『実践理性批判』『道徳形而上学原論』筆者意訳。
ミルは言う。「自由の名に値する唯一の自由は、われわれが他人の幸福を奪い取ろうとせず、また幸福を得ようとする他人の努力を阻害しようとしない限り、われわれは自分自身の幸福を自分自身の方法において追求する自由である」『自由論』
これらを示せば「自由論」だけで十分「道徳論」が成り立つことが証明できるだろう。「自由」を認めれば「自分勝手な振る舞い」が増える、というのは誤りである。「自由」を実践するためには、常に他者や社会のことを慮る必要がある。ここに社会性が求められる。他者や社会のことを知るためには、多くの知識を得る必要がある。欲望に振り回されては、それは不自由。「自由の実践」においては「節制」「陶冶」など自分を律する能力を獲得せねばならない。また「責任」が伴う。「自由」によってこそ、人間の能力の発展が期待できるのだ。ところが、残念、余程多くの人が「自由」について深い考察を行わないために、個人と社会は、自家撞着的混乱のうちにある。
Posted at 2020/10/15 22:34:26 | |
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2020年10月15日
1.民主主義 「国民が主役」と説明することができるでしょう。国民一人ひとりの考えや価値観は違うので、意見を統一しなかければ社会は治まりません。ひとつの事柄について、ひとつの意見か、少しばかりの意見にまとめかければなりません。そのためには、二つのことが求められます。①一人ひとりが自分の意見を持つこと。②統一された意思に従うこと。(たくさんの個人の意見をひとつ乃至は少数の意思に統一されるためには「話し合い」が必要です。政治の世界で言えば「議会」です。たくさんの意見をひとつの意見に集約する過程は民主主義において不可欠で大切ですが、今回は「多様な意見の存在を是認すること」が主題ですので割愛します。)
①と②が合一である人もいれば①と②が相反する人もいます。個人の考えと社会規範の間にずれのあることが往々にしてあります。自分の考えを大切にしながら、それに反する社会規範に則って行動することが必要になる。しかし自分の意思や価値を偽って生きることは大変なことです。そこで異なる価値が対等に存在できるように民主主義の社会では「自由」や「価値の多様性」が尊重されることになります。
2.自由主義 自由主義とは価値の多様性を認めることです。一つの社会のなかに、いろいろな価値(それが相反するものであっても)が存在することを互いに認め合う、というのが自由主義です。自由主義においては、自分と相反する意見をないがしろにする(存在しないものとみなす)ことは許されません。自分の意見が自分にとって正しいように、相手も意見も相手にとっては正しいということ。到底受け入れられないような相手の意見も自分の意見と同様に受け入れることが求められます。自由主義の下では、ひとつの意見や価値観のみを認める、という思考は否定されます。自由主義の社会は、幅広い価値が存在する緩やかな規則のある柔らかな社会です。
3.価値多元主義 たとえば、余暇を勉強に費やすか、スポーツに費やすか、仕事と家庭の両立において、いずれにどの程度重点を置くかは、これは個人の意思や嗜好、価値に依存します。どちらが「価値のあることか」の判断は、個人の判断により、選択することになります。そこに明確な「正解」はありません。ましてや「ひとつの選択だけが正しい」ということはありません。
4.価値相対主義 「~でなければならない」「~が絶対に正しい」ということは本質的に存在しないという考えです。日本国憲法第21条の表現自由やその他の人権規定は、この考えに沿って定められているといわれます。そうすることによって一人ひとりの思考、意見、価値の存在可能性を見出すことができます。
現在の日本は、民主主義社会であり、自由主義を唱えます。社会では「価値多元主義」や「価値相対主義」の道徳観念が広く採用されています。「日本社会には、ただひとつの価値観しか存在しない」などいう人はいないでしょう。むしろ「いろんな価値観のあることを認め合いましょう」という道徳観が広く受け入れられていることでしょう。価値の多様性を認める社会では、その規範(法律やルール)は多くの人を幸せにするために(即ち、多くの人の価値を認めるために)、そうでない社会(かつての王政や天皇制の時代、あるいは現代の独裁国家。あるいは強権的なリーダーが存在する集団)よりもはるかに、「自由を幅広く認める」「規制を少なくする」制度を採用しています。即ち、一人ひとりの価値を認め、意思の合意形成過程を合理的なもの(限りなく平等を目指す選挙権や住民投票による直接民主制)とすることです。
補足) 民主主義社会において、思考は自由であるといっても民主主義を否定する「独裁」や「ひとつの価値しかみとめないこと」や「他者に価値を押し付けること」などの考えは否定されます。自由主義においても同様で、「自由を否定する価値」は否定されます。「価値多様主義」は絶対的な価値「これだけは正しい」ということは否定するのですが、「価値多様性」だけは「絶対的だ」と考えます。価値相対主義も同様に「価値相対主義」という価値だけは絶対だとします。いずれにおいても、そうしなければ自己矛盾を生じるので、どの考えもただひとつ「自由は絶対だ」という例外を設けるのです。これは論の欠点ではありません。「人間は自由で平等だ」という価値は絶対だからであり、これを原則の理念としなければ、「他者への抑圧」が正当化され、さまざまの「基本的人権」が容易に否定されてしまいかねないからです。
Posted at 2020/10/15 22:30:28 | |
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わたしがおしえてあげるわよ | 日記
2020年10月15日
yahooコメントを厳しくしたという。
同じことを繰り返し投稿するのも、AIにて排除するという。
さようなら~~。
yahooカードにてぼたくってやるわ!
香港加油騒動からまだ日は浅い。
いやあ、ひどいもんだな、政府自民党。
なんだ?
日本学術学会の任命拒否。
話が二転三転。どうなってんの?
思想統制は明らかだ!
と批判するのは、「賢い人間」だけ。
ほかのあほうどもは、「税金の無駄遣い」だなんて!
あのな、今、自民党本部前には、けーさつがたくさんいてさ、
警護警備してるぜ。
おかしいだろ。
自民党が、アルソックでも雇えばいいんだよ。
国家機関でない、自民党を、税金で、警護警備するのは、無駄遣いだろうが!
首相官邸を警護するのは、国費でよろしい。
10月6日の官邸前のデモは「たくさんきてましたよ」という警官。
珍しくリベラルだ。
大方は、業務命令をこなしているだけ。
少数は本気で「通りすがりも、みなテロ予備軍対応」だぜ!
いかれてる~~。
で、今度は中曽根の葬式かよ。
自民党員も呆れているぜ(ヤフコメを見てよ)。
アジア。遠き極東。
独裁の嵐!
これで、デモをしないなんて、腰抜け腑抜け。
自民党をぶっ潰そうではないか!
無政府状態になる?
なるね。
そうなったら困る?
困るね、阿呆ばかりで。
明朝、中学生相手に配るパンフレットを紹介しよう。
自由論、だ。
Posted at 2020/10/15 22:29:04 | |
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政府はいつも愚か | 日記