労働時間の制限?
残業時間上限の設定は、残業を当然のものとし、労働者が死に至った場合、使用者に責任が問われるという
一律の基準100時間を目安とし、藍並みにぼかすために、ユウイツの数字を表現しない
「未満」を用いて、0~100未満のいずれの数字でのいいかのような、
「印象操作」をする。
思考を訓練していない日本人は、容易に「印象操作」を受け入れて、何事もなかったかのように
今日も昨日と同じように生きていく。
労働者は、生産者であると同時に、消費者とみなされ、
欲望を増大することを強制される。
そのために、ハッピーマンデーやプレミアムフライデーが儲けられ、
またまたマスコミも加担して「印象操作」が行われる。
そして生産者たる労働者は、ますます多忙な労働環境に追いやられる。
本来、人生は自分のためにあるので、その人生の一部の労働時間は、
自分のために用いられなければならない。
お金が必要だからというのであれば、お金のために働けばいいのである。
お金のために働くことは、悪ではない。むしろ全である。
お金のために働くことをあくとすることは、無償で働くことはが膳であるような誤解を生む。
これもまた「印象操作」である。
無償の労働力の提供は、さほど美しいものではない。
奴隷宣言と同じであるからだ。
かくして、日本人は、労働の中に生きる目的と喜びを見つけざるを得なくなる。
僕にとっての働き方改革とは、人生の価値の見直しである。
自分お時間を増やすことが目的である。
趣味でもよし、家族知人有人との交わりでもよく、とにかく自分でコントロールできる時間を確保し
楽しむこと。
それが人生を生きるということ。
如何せん、労働は使用者の命令に基づいて行動するのだから、自分の意志の介在する余地がない、
もしくは乏しい。
これは奴隷だ。
自分が自分の人生の主人になることこそ働き方改革なのである。
ところで、「働きかた改革」とスローガンをうって「印象操作」する
かのあべは
具体的にそれが何であるかを語ったか、僕は知らない。
Posted at 2017/03/15 07:43:59 | |
トラックバック(0) |
政府はいつも愚か | 日記