今日はある講習会に参加。 そこで三角巾の使い方を教わったわけですが、抗議の前にさらっとお話がありました。
三角巾は何時から使われるようになったかは定かではない。ヨーロッパでは戦場で使われた記録はあるが、日本では明治頃 台湾に難破で漂着した日本人が現地人に皆殺しにされた。どうも人食いの習慣があったようで、報告を受けた日本が台湾出兵した際に、三角巾が使われた記述があるとの話があった。
え~!! 台湾に漂着した日本人が皆殺し?
人食い習慣!? そんなの習ったことないし、宮古島観光でも旧日本軍の悪態しか聞かされなかったぞ!
なんのことだろうと早速帰宅してネット検索。 するとありました。ありました。
そのころの台湾人はかなり野蛮としか思われない記述ですが。
牡丹社事件(宮古島民台湾遭難事件)と台湾出兵
「宮古島民台湾遭難事件ー宮古島歴史物語」宮國文雄著(那覇出版社)には、牡丹社事件のかなり詳しい顛末が記されている。
その事件は、1871年秋に発生した。宮古、八重山の春立船4隻(宮古船2隻、八重山船2隻)が首里王府に年貢を納め終え帰途についた時のことである。4隻とも12端帆の当時としてはかなり大きな船であったようであるが、台風に遭遇し、まるで木の葉のように波にもて遊ばれ離ればなれになって、宮古船の1隻だけが宮古島にたどり着いたという。八重山船の1隻は行方不明のままであり、結局、残り2隻は漂流の後、台湾に漂着したのである。八重山船は西海岸に漂着したため、すぐに台湾府に保護されたが、宮古船は、台湾の南端、八瑤湾(ハチョウワン)に漂着し、言葉の通じない「牡丹社」というパイワン族の村落に迷い込んで、54名もの人たちが殺害されることになったのである。
八瑤湾(ハチョウワン)に漂着した宮古船には、頭職仲宗根玄安を含む19人の役人と、従内と称する士族の随行者11名、供と称する平民の随行者21名及び船頭を含む乗組員18名の合計69人が乗っていたが、まだ波荒く危険な状況の中、我先に伝馬船に飛び乗り上陸しようとしたため、3人が波にさらわれ、溺死することになったようである。
無事に上陸を果たした66人は、何という島かも分からないまま彷徨い、2人の男に出会っている。そして、言葉が通じないために、意思疎通がうまくできないながらも、彼等を案内人としてしばらくついていったようである。しかしながら、持ち物を略奪されるなどしたため、途中で案内を断っている。そして、その2人が「西の方に行くと耳の大きな人が住んでいて人の頭を切り取る風習がある。だから南のほうに行く方が良い」と指摘していたにもかかわらず西の方へ向い、野宿をしながら進んでいる。
たどり着いた村は、当時の蕃社の一つで、『高士沸(クスクス)』(現牡丹郷高士)といわれる首狩りの風習が残るところであったという。ここで食事を与えられ救助されたものと思っていると、まもなく持ち物をほとんど奪われる。異常な様子の村人や蕃刀を持つ男の挙動に不信をいだいた漂着者たちは再び逃げ出す。そして「凌老生(リョウロウセイ)」という言葉の通じる老人に出会い保護されるが、追ってきた高
士沸社と牡丹社の人々は凌老生に引き渡しを迫まる。凌老生は命がけで漂着者達をかばったようであるが、蕃社の人々は、次々に漂着者達を連れ出し殺害したようである。異常な事態に気づいた漂着者達は再び四散して逃げた。そこでも、凌老生は素早く9人をかくまっている。蕃社の人々の首切りは、凌老生が2樽の酒を出せなかったために始まったという。酒に代わるものをいろいろ提示して哀願したが次々に連れ出され殺害されたというのである。
逃げ出した漂着者のうちの3人が、「鄧天保」という人の家に逃げ込み助けられている。鄧天保は3人から事の次第を聞き、すぐに生存者の捜索に当たり6人を保護している。そして、統捕に急行し、通事の「林阿九」に事の次第を話し保護を求めたのである。林阿九は早速救助にかかり、保力庄の総頭「楊友旺」に事件の報告をして保護を求めた。楊友旺は、9人を保護するとともに、残る人々の捜索に出かけて 、さらに2人を救助したのである。また、宮古人が蕃社の人に捕らえられ留置されているという情報を得て楊友旺はすぐに駆けつけ、私財を投じて救出したという。その後12名の人々を自宅に40日間保護し、衰弱している体力の回復を図る一方で、台湾府城へ送り届ける準備を進めたのである。
その後遭難者達12名は、楊友旺の長男に付き添われて保力庄を出発、車城に至り、車城からは海路楓港に向かい、楓港からはまた陸路で鳳山県に向かったのである。鳳山県の役人に引き渡すまで漂流者達を世話した楊友旺は、大変な負担を引き受けたことになる。漂流者達は鳳山県を出発した後は、途中で一泊して台湾府城に到着しているが、ここで、台湾の西海岸に漂着し、季成忠という人に救助された八重山船の一行と合流している。そして、その後琉球館の保護を受け、約7ヶ月半後の明治5年6月2日福州を出発して6月7日那覇に戻ったという。
この牡丹社事件(宮古島民台湾遭難事件)の報告を受けた鹿児島県参事官大山綱良は、すぐ明治政府に事件の詳細を報告するとともに、台湾の生蕃を征伐したいと申し出ているが認められていない。さらに、54名もの人々が殺害された琉球藩からは、できるだけ穏やかに事件の処理をしてほしいとの嘆願書が出されていた。にもかかわらず、日本は2年以上が経過した1874年に台湾に出兵(征討軍3000名)するのである。まさに帝国主義的領土拡張の口実に利用されたとしか考えられない。「宮古島民台湾遭難事件ー宮古島歴史物語」宮國文雄著(那覇出版社)より、そのへんの事情を考察した部分を抜粋する。
いや~、講師のさりげない一言でひとつ勉強になった1日でした。
Posted at 2014/05/22 21:06:50 | |
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