さて、
急に見舞われた病に倒れ、自宅療養期間も2週間以上が過ぎ、
おかげさまでようやく仕事への復帰の目途も立って来ました。
しばらくはまともに歩く事も出来ず、軽度の半身麻痺状態でしたので、
そう考えたら、発狂したくなるような激痛も随分和らいで落ち着きました。
勿論、まだそこそこの痛みと若干の麻痺は残ってはいるんですけどね。
ご心配掛け、お声を掛けて下さったみん友さんには本当に感謝です。
そして、ようやく車のハンドルも握れるようになり、久々にゴルフ7始動。
とは言っても近所だけですけどね。何週間も放置状態の愛車でしたが、
エンジンもバッテリーもすこぶる元気で絶好調だったので安心しました。
しかし、自身の好調の兆しと引き換えに、嫁さんが数日前から倒れて
寝込んでしまいました。熱発は全く無かったものの、未明になって発熱。
…見事にインフルエンザでした。なんかもう、色々とお手上げです。
最低4日は一切外出できないですし、私もそこまで負担出来ないので
暫く出前とか非常時のカップラーメンあたりで凌ぎます、とほほ。
そんな立て続けに見舞われた不運でしたが…今日は3月11日でしたね。
そう…あの甚大な被害をもたらした
東日本大震災からちょうど5年の節目。
それを思ったら私なんて、全然大したことありません…そう思えます。
因みに去年の今頃は、と言えば…
春まっしぐらだった矢先の
ドカ雪に見舞われてましたよね、東海地方…。
そんな5年目の節目を迎えるということで、人間の記憶なんていい加減で、
だいたい5年も経つと、イヤなこともぼんやりしてきて、忘れてしまいます。
忘れたくても忘れようがない当事者の人間はともかく、そうでない人だと。
というワケで、今日という1日は震災を振り返ってみようと思ったのでした。
東日本大震災というと、どうしてもあの大津波や、後に起こる原発事故が
フィーチャーされがちなんですが、例えば自身が済んでいる地域といえば、
近くに原発も無いですし、海からも決して近いワケでもない場所なので、
どうしても対岸の火事として客観視しすぎてしまうフシがあると思うのです。
しかし、この東日本大震災は、そもそも地震だけでも相当凄まじいもので、
地震大国である日本に住んでいる限り、誰にでも降りかかる災いでもあり、
ましてや東海地方は、数十年前から地震に対する"恐怖"みたいなものを
散々"植え付けられて"いるだけに、対岸の火事ではいられないのです。
実際、私は加入しておりませんが、地震に対する保険加入率も全国一。
関西は大震災があったにも関わらず、関西よりも加入率が高いそうで(汗
まぁそれだけビビっているワケなんですけどね。ある意味用意周到です。
こちらは、当時の「地震」の部分のみフィーチャーされた映像なのですが…
実際の映像を見ていると、非常に解り易いですね。
この震災の教訓もあって、今の住居では大袈裟な耐震対策なんていうのは
到底無理ですが、それまで使用していた心細いラックや棚は全て処分して、
耐震対策の取れるモノに入れ替え、頭上の荷物を下りしたりしました。
それだけでも、相当ケガをする可能性や確率は下がるということが、
これらの映像を見ていると非常によくわかります。学ぶところは多いです。
特に我が家の場合、そもそもモノが多いですし、かと言って住居は狭いので
どうしても上へ上へと荷物を積み重ねていく傾向が強くなるんですよね(汗
クルマの中もそうですよね。ほとんどモノというモノを置かなくなりましたしね。
まぁクッションとか最低限のモノは仕方がないですが、ケガは無いですしね。
あとは、防災グッズを意識して揃えるようになりました。
常に玄関には2つ以上の懐中電灯を置いておく、ペットボトルを用意しておく、
そして、防災マップも。周辺のハザードマップも全て頭に叩き込みました。
どうしても、こういう事でも起こらないと人間なかなか積極的にならないので
ある意味、良い教訓ですね。明日は我が身…本当に肝に銘じないとね。
さて、2011年3月11日を振り返ると…
皆さんはどう過ごされていたでしょうか。大抵は平日だし、仕事中ですよね。
私はと言えば、嫁さんと共に自宅にいました。年に数回くらいしか上がらない
2階の寝室で昼寝してたんですよね、ダラダラと(汗
そうしたら突然の大きな揺れ!名古屋でも震度3~4を記録したのですが、
揺れ具合から、震源は相当遠いものだというのはすぐに気が付きました。
そこらへんは、あらゆる災害に見舞われて来た災害マスターだけあって…(汗
かなり鈍感なハズの私でも、震度1の地震が起きただけで目が覚めるという
我が家は築40年以上の非常に古い家屋なので、揺れがハンパないのです。
そうなると、震度4では激しくギシギシと揺れ、土壁はヒビ割れ起こします(爆
そして、実は当時…隣の家が家屋の修繕工事真っ只中だったんですよね。
足場を組んでいたんですが、この地震で立てかけてた非常にデカい脚立が
我が家に倒れて来て、ダイニングの窓ガラスが見事に木っ端みじん…(汗
2階にいた我々は、もうめちゃくちゃビビりました。凄い音がしましたしね。
あ、この家…ついに倒壊しちゃうんだな~って。
震源が遠いだけに、揺れがいつまでも収まらなかったですもんね。
ホント、クルーザーにでも乗船してるかのようなユラめき具合でしたよね。
その後、テレビの報道番組に釘付けでしたが、福島の相馬で1人暮らしを
している高齢の叔母の事が気になり、電話をするも既に全く通じない状態。
さらに後の報道で、町民の半数以上が行方不明というとんでもない事態で
とりあえず救出に行かねば!と、同じく愛知県に住む姉が福島へ向かい、
叔母の家に向かったものの、周囲は津波で道路もほとんど無くなっており、
自宅はギリギリのところで津波被害には遭ってなかったものの半倒壊。
そして、何より驚いたのは…この騒乱に便乗してか火事場泥棒が侵入し、
通帳や現金、宝飾類といった金目のモノだけキレイさっぱり盗まれた後。
ほんと、北野たけしさんも仰ってましたが、「死ねばいいのに…」と共感。
当人は役所の人間に助け出され、公民館に避難していたらしいんですが、
絶対に地元を離れたくないという叔母を半ば強引に連れて来たんですよね。
結局、救出時には近くにある福島原発が爆発し、それ以降立ち入り禁止で
半倒壊した家屋も放置した状態でしたが、4年前になってようやく姉夫婦が
片付けに出向いたんですが、残念ながらこちらへ来て保護していた叔母は
故郷へ帰ることなく、死んでしまいました。
…なんかこう、やるせないですね。
怒りや不満はどこにもぶつけられないですしね。
この大震災があって、姉夫婦は封鎖前の発生直後に福島へ訪れてますが、
兄や姪っ子もこぞってボランティアとしてしばらく東北へ訪れていました。
そして、義弟は災害派遣チームとして、しばらく復興支援に出向いてました。
私は…と言えば、特に何らアクションも出来ず、自身にイライラしてました。
せいぜい募金協力するくらいで。なんだか申し訳ない気持ちでいっぱい。
自分だって、災害に遭ったらめいっぱい助けてもらうかもしれないのにね。
しかし、大好きだった東北、いずれしっかり周遊したかった東北ってことで、
震災から3年後、長距離ドライブでも安心なVWゴルフ7に乗り換えたのを
キッカケの1つとして、同年2014年の秋にようやく
訪れることが出来ました。
多くの時間は費やせませんでしたが、当時まだ子供だった学生さんだったり、
当時津波で志津川中学校へ走って難を逃れた方などにも色々と話を伺い、
震災から4年近く経った今でも人としてギリギリの生活を送っている現実や、
まるで先が見えない現状を知って、何だか居た堪れない気持ちでしたね…。
以前の
ブログ記事でも触れてますが、改めて。
宮城県南三陸町の津波の映像を。
この映像が撮影されたのが、こちらの丘の上に見える志津川中学校です。
この映像の中では3分15秒あたりで大津波により濁流で流されてしまう
ファミリーマート志津川廻館店から映したものです。
このから最寄りの高台が中学校だったワケですが、実際には結構遠く、
しかも、とんでもない坂道と階段があるので、年寄りにはかなりキツいです。
282段の階段を昇り切り、さらに坂道を数百メートル進むと中学校です。
中学校からは津波が撮影された南三陸町の市街地全体が見渡せます。
奇しくもこの被害で有名になった防災庁舎も随分先ですが見えてますね。
この随分先と言ってもファミマからわずか1キロチョイなんですけどね。
なので、津波が来たのかな?なんて気付いた3分後には全て濁流の中。
如何に津波が恐ろしいものなのか、実際に訪れて思い知らされました。
私ら夫婦も、防災庁舎をはじめいくつかの被災地へ花を手向けて来ましたが、
またそう遠くならないうちに再訪して、少しでも役立てたら嬉しい限りですね。
現地の方たち曰く、震災前と何ら変わりのない暮らしで、何ら変わりなく
フツーに観光に訪れて、フツーに接してくれるのが一番の"復興"だそうです。
最後に…
当時、私はちょうど自身の試験を控えていた為に、ご当地復興支援土産の
「
オクトパス君」なるものを買わせて頂いたワケですが…
無事に受かることが出来ました。置くと(試験を)パスする…まさにその通り(笑
勿論、今でもデスクの真ん中に"東北復興"の旗を掲げて置いてあります。
どうか、皆さんが1日も早くそれまでのフツーの暮らしに戻れますように…!!