20080808 箕輪城その1
投稿日 : 2008年08月10日
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群馬県高崎市箕郷(みさと)町にある箕輪城です。
国指定史跡で日本100名城にも選ばれています。
最寄は、関越道前橋ICなのですが、箕輪城というより箕郷町まで行くのがやっかいでした。
ナビでもあれば簡単なんだろうけど。
城は東西約500m、南北約1100m、面積約47haにおよぶ広大なものです。
西側は、榛名山より流れる榛名白川が流れ、それによって削られた崖(比高約70m)に守られた山というより丘を利用しています。
南側は、かつて榛名沼という沼があったそうです。
榛名山から続く傾斜地が広がる北側や東側は、比高約40m程なので、さらに空堀や水堀で守っていました。
長野氏が最も隆盛を見せたのは、武田信玄や北条氏康などが上州(群馬県)へ進出しようとしていた時期で、長野業正(なりまさ)の代です。
落ち目の関東管領である上杉氏(その後、長尾景虎が継ぎますが)に律儀に従って、上州の西半分の小豪族をよく纏め、武田氏や北条氏を撃退し続けました。
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城の東側、搦手口(裏口)です。
長野氏が支配したころは、こちらが大手口(表口)だったそうです。
徳川家康が豊臣秀吉によって、東海地方から関東に国替えさせられた際、ここを任された井伊直政によって西側を大手と変更されたようです。
ここから、二の丸にある駐車場まで車で入れます。
この写真の左右は、現在は畑が広がっていますが、かつては水堀があったそうです。
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二の丸の駐車場です。
搦手口から40mほど上がったでしょうか。
景色もそこそこ良いです。
やたら暑いので日陰を選んで車を止めてます。
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二の丸と本丸の間の空堀です。
木が鬱蒼としていて、写真では分かりにくいですが物凄い規模です。
幅は40m、深さは15m~20mはありそうです。
これが本丸の周りを囲んでいます。
多少、自然地形を利用した部分もあるのでしょうけど、重機などの無い昔に人力でこれを掘るって・・・。
想像できませんね。
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本丸です。
南北約100m、東西約70mの広さで、東側のみ2mほどの高さの土塁があります。
さらにこの左手奥に御前曲輪があり、持仏堂などが建っていたそうです。
業正が生きている間こそ西上州を支えていましたが、その死後、十代で跡を継いだ業盛(なりもり)では武田信玄の猛攻を支えきれず、この御前曲輪で自刃。
長野氏は滅亡。箕輪城は、武田氏のものになります。
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城の北側、水堀の跡です。
正面は、新曲輪という曲輪。
右手は、稲荷曲輪のあるあたりです。
左手には、丸馬出しの跡もあるらしいのですが、草が生い茂って入る気になりません。
この丸馬出しは、武田氏の時代に造られたものだそうです。
武田氏のものになって以降は、城主が目まぐるしく変わります。
武田氏が、織田信長によって滅ぼされると、そのスキを突いて北条氏が奪取。
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稲荷曲輪と水堀の跡です。
屏風折れの形状が残っています。
一旦、北条氏が奪取したこの城は、その後、織田信長にこの方面の攻略を任された滝川一益によって奪われます。
その滝川一益も本能寺の変後、織田軍団内部のゴタゴタで後援が受けられず、逃げるように上方に帰ります。
北条氏は見逃さずに再奪取しました。
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空堀の底を通る遊歩道です。
左側が御前曲輪。右側が通仲曲輪。
④の空堀とほぼ同規模。自然の谷ではございません。
人の手によって掘られたものなんです!
通仲曲輪にも以前は入れたらしいのですが、登り口が分からない・・・。
下から見る限りでは、ヤブにしか見えないんですけどね。
豊臣秀吉による小田原攻めで北条氏が滅んだ後は、関東に国替えになった徳川家康の部将、井伊直政が城主になりました。
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