20080808 箕輪城その2
投稿日 : 2008年08月10日
1
三の丸から蔵屋敷という曲輪の方角を見てます。
段々構造になっているのが分かります。
そういえば長野業正,業盛親子に従っていた、上州の武将の中に有名な人物がいます。
新陰流の創始者、上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみのぶつな)です。
彼は、赤城山の麓、大胡や上泉辺りの領主だったようです。
同じ剣豪といっても、宮本武蔵のような腕を磨いて、より良い就職先を!っていうのとは違って、元々「殿」と呼ばれる身分の人です。
彼は、武田氏の西上州侵略を生き残り、信玄に家来になるよう誘われますがこれを断り、以後は新陰流を広めるため旅に出たってことになっています。
2
蔵屋敷と本丸の間には、かつては橋が架かっていたそうです。
ちなみに前出の新陰流は、柳生宗厳(やぎゅうむねよし)に相伝されますが、徳川将軍家兵法指南役になった彼の五男 柳生宗矩(むねのり)は、新陰流の継承者ではありません。
正式には、長男の子、宗厳にとっては孫にあたる利厳(としよし)に継承されています。
利厳の家は、代々尾張徳川家の兵法指南役になっています。
尾張柳生と江戸柳生と分けて称され、あまり仲は良くなかったらしいです。
3
二の丸の南側の大堀切と土橋です。
城の南北をこの大堀切りで完全に二分していて、行き来するにはこの土橋しかありません。
南北どちらかが敵の手に落ちても、残った片方で戦闘が続けられるようにこのような構造になっているそうです。
4
大堀切を挟んで二の丸の南側にある曲輪から、城の東側の風景です。
二の丸の駐車場からも同じような風景が見られますが、こちらは柵もなにもありません。
いきなり崖です。
膝丈くらいの草がボウボウと生えているので、スネのあたりがちょっと痒い・・・。
5
城の南側は、大きく2つの尾根に分かれていて、榛名口と大手尾根口の2つの出入り口があります。
まずは榛名口に向かいます。
尾根伝いに階段状の名も無い曲輪が並んでいるのですが、道が無くなりそう・・・。
MTBだったら、喜んで入っていくシチュエーションなんですけど、歩きでスネ毛まる出しでは、草がまとわり付いて痒いは何か出てきそうだわで、落ち着かないです。
この先は、さらにクモの巣攻撃の連続でえらい目に・・・。
6
城の南側にある小学校の辺りには、かつて榛名沼という沼があったそうです。
これを堀に見立てて城の南面の守りとしていました。
写真を撮っている私の背後、2つの尾根の間の谷にはお寺があるのですが、かつては水の手曲輪といったそうです。
その名のとおり湧き水が豊富で、城内で使う水を供給していたそうです。
7
三の丸門の石垣です。
左側にしか石垣がないですが、櫓門が建っていたということなので、右側にもかつては石垣があったのかなぁ?
土のままの土手にするか、石垣にするかの差がどこにあるかというと、その上に建てる建造物に差が出るそうです。
土のままでは、雨風で土が流されたり、建造物の重さに耐えられない為、平場の端まで建造物を建てられません。
石垣にするとそれが出来るので、必然的に平場を広く使えることになるそうです。
この辺は、長野氏の時代のものではなく、城の西側を大手(表口)に変えた井伊氏が手をいれた部分でしょう。
8
三の丸から大手に下りていくと、鍛冶曲輪があり、ここにも石垣が残されています。
鍛冶曲輪とは・・・、書いてある通りです。
大手口の位置を変更し、城下町を開いたりと大改修を施した井伊直政ですが、箕輪城のある地域は、榛名山から続くかなり傾斜した土地にあります。
もうこの時期の城造りのトレンドは、城下町の経済的発展を抜きに考えられません。
城下町の発展は地理的に無理と判断したのか?高崎に新たに城を築き、箕輪城は廃城となりました。
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