20110415 岩櫃城①
投稿日 : 2011年04月22日
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群馬県吾妻郡東吾妻町にある岩櫃城です。
標高802mの岩櫃山は、妙義山や荒船山同様に群馬県西部でよく見られる切立った断崖や奇岩がいたるところに顔を出す岩山で、岩櫃山南面は高さ200mの断崖絶壁。
ただし城はこの山頂に築かれている訳ではなく、東に伸びる尾根上に築かれています。
岩櫃山の頂上部は、人が常駐できる場所ではないのでww
本丸辺りの標高は約600m、城址の入口付近の標高は約520mくらい。
わざわざ「要害地区」とあるように、実際の岩櫃城の一部でしかありません。
「要害地区」の入口付近より比較的なだらかで幅広の尾根が広がっており、その尾根上に城下町を内包する一種の城塞都市を形成してしていたようです。
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①
左上
岩櫃城本城(要害地区)大手。城の口。
案内所がありますが、城址の紹介ではなく、あくまで岩櫃山登山の案内所。
本城の裾野は、空堀が取り巻いていました。
案内所の建つ辺りや奥に続く登山道は空堀の跡のようです。
右上
北西に広がる平沢地区。
現在は耕作地や集落のある平沢地区も城域の一部。
空堀の痕跡も残っているそうです。
左下
入口の背後、北東側の台地上が天狗丸。
右上
②
天狗丸には岩櫃神社がある他は畑。
真田忍者の拠点であったとも言われています。
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②
天狗丸から見た岩櫃城の本城。
右奥の山が岩櫃山山頂で、手前の尾根上に城があります。
岩櫃城の築城者ははっきりと分からないようですが、最初に文献に城主として登場するのは、南北朝時代の吾妻太郎行盛です。
この行盛は、南朝方の里見氏により攻められ自害し落城しています。
その後、叔父の斉藤氏の養子となっていた行盛の子の憲行が、関東管領上杉氏の支援で里見氏を追い岩櫃城を奪還し、以降六代に渡り東吾妻支配の拠点となりました。
ここに出てくる里見氏は、新田氏の傍流で榛名山南麓の碓氷郡里見郷を領していました。後に房総半島を舞台に活躍する戦国時代の里見氏は、ここから移って行った一族です。
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③
城の口にある案内所付近の空堀は埋まっていますが、すぐ脇の林の中に空堀が残っています。
この空堀には、本城二の丸付近から伸びている竪堀が合流しており、さらに東側に伸びて自然の谷に?がっています。
この谷の右側に見えている道は旧吾妻街道で、このちょい先に「西の木戸」という門がありました。
街道跡の空堀部分は土橋になっていましたが、かつては橋が架かっていたようです。
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天狗丸から見た旧吾妻街道方面。
現在の吾妻街道、国道145号のある辺りからは200m弱高いところ。
街道を城内に取込んで人や物の行き来を監視するためとはいえ、わざわざこんなところを通らなきゃ行き来できなんてちょっと迷惑w
憲行より六代続いた斉藤氏ですが、その頃には大分勢力は衰えていたようです。
河越夜戦に大勝した後北条氏が上州を窺うまでに進出するようになると、関東管領上杉氏は長尾景虎の居る越後へ逃亡。
上州の諸豪族は、盟主を失って群雄割拠の状態になり、斎藤氏も周囲の豪族から圧迫を受けるようになります。
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④
左上
城の口に戻って本丸を目指します。
この辺りも空堀の跡。
右上
北側の斜面の林の中に、階段状に居住空間と思われる掘削地が残っています。
左下・右上
二の丸から城の口まで続く、長大な大竪堀。
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この大竪堀は、深いところだと5,6mの高さがあります。
東吾妻を狙う周囲の豪族の中に鎌原氏が居ました。
鎌原氏は、吾妻郡の西部、嬬恋や長野原,草津あたりを領していた豪族で、信州小県郡を領する真田氏とは領地を接しているだけでなく、祖先も同じ滋野氏という関係で、早くから真田氏を通じて武田信玄の臣下となり、武田氏の後盾で斎藤氏の東吾妻郡にも進出してきます。
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⑤
左上
大竪堀を越えると、中城と呼ばれる場所です。
居住空間としては不適当な傾斜地で、どんな目的を持ったところなのか不明・・・
右上
見学路になっている竪堀。
上部の遺構の様子から、かつても登城路としても利用されていたのでは?と思われます。
左下
城の南面に続く帯曲輪。
この辺こそ窪んでいるけど、この奥に進んで行くと殆ど窪みが無く横堀というには平らすぎ。
右下
さらに南面の斜面下部へ続く通路を降りると、海野屋敷跡。
岩櫃城の城代が海野氏なので、その屋敷跡でしょうか。
殿邸という地名も残っているので、広い居住空間だったようです。
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