20110415 岩櫃城②
投稿日 : 2011年04月22日
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左右上,左下
さきに出てきた帯曲輪を西南方向に進んで行くと、上方からこの帯曲輪に数本の竪堀が合流しているのが見られます。
右下
帯曲輪は大体2m幅くらいですが、部分的に4mほどある場所もあり、ほぼ真っ平らな通路。
まだまだ奥までありそうですが、「熊注意」の看板にビビリ気味・・・
ネットで調べてる段階で、「畑を歩く熊を見た」なんてレポもあったしね。
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⑥
見学路になっている竪堀へ戻って登ります。
左上
竪堀の階段を登り切ったこの背後、中城の上部にあたるところに三ノ丸があったんですが、見逃しました・・・
この付近は、土塁を伴う虎口のようにも見えます。
右上
通路の左側の藪の向こうに、何かありげな空間があります。
左下
藪を越えて入ってみると、そこにはまた別の帯曲輪が。
先程見た竪堀が、この帯曲輪から下に掘られています。
右下
帯曲輪の奥の方は、何かしら建物があってもおかしく無さそうな広い空間もありました。
3
左上
通路へ戻って虎口を入ると、約10mほど上に二ノ丸が見えてきます。
右上
右側の藪に入ると、浅い堀状の窪みがありその向こうに小さな曲輪があります。
左下
さらに浅い堀状の窪みを進むと、ここから竪堀が下に落ちて行きます。
始めに出てきた大竪堀の起点です。
右下
竪堀の右側、中城の上部にあたる林の中には、階段状に小さな曲輪があるのが分かります。
この下に三ノ丸があったのに・・・
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背後の二ノ丸を見上げてみると、ここからだと8mくらいの高さかな。
その後斎藤氏は、武田氏の上州進出を恐れたその他の豪族の協力もあって、一時は鎌原氏を撃退することに成功します。
そして遂に武田信玄は、上州攻略を真田幸隆に命じ、幸隆は斎藤氏の重臣の海野兄弟を内応させることに成功し岩櫃城を落とし斎藤氏を滅ぼしました。
この海野氏も祖先が滋野氏で真田氏とは同族です。
5
左上
通路に戻って、土塁を伴う帯曲輪(横堀?)を進みます。
右上
奥の林の手前が竪堀になっています。
左下
二ノ丸に上がる手前の中段に、虎口を伴う小さな曲輪があります。
右下
二ノ丸からこの中段の曲輪を見たところ。
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この辺からの、岩櫃城南方の風景。
長篠の合戦で武田氏が大敗した時、真田幸隆は既に亡く長男の信綱が継いでいましたが、この合戦で当主信綱が弟の昌輝と共に戦死。
甲斐の名族の名跡を継いで別家を立て、武藤喜兵衛と名乗っていた次弟の昌幸が実家に戻り真田氏を継ぎます。
この頃の真田昌幸は、武田勝頼の命で主に岩櫃城に在城していたようです。
これは吾妻郡のさらに西、交通の要衝だった沼田攻略のためでした。
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⑦
二ノ丸です。
平らではなく、あまり手を加えていないようです。
当時の沼田城は、関東管領上杉氏(謙信の)の城代で藤田氏が守っていましたが、謙信の死後に起きた継承者争い「御館の乱」に乗じた後北条氏が攻め落城。
その数年後、今度は真田昌幸が沼田城を攻め落とし、岩櫃城は、沼田との中継地として重要視され続けました。
8
左右上,左下
二ノ丸と本丸の間の横堀は、折れを伴いながら竪堀と合流しています。
右下
本丸南側の横堀です。
竪堀から伸びていて、林の中まで続いています。
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